「なんて、僕は、ツイているんだろう!」。学生の声高らかにうれしがる容子ようすと言ったらありません
「赤い薔薇があるじゃないか! こんなにキレイな薔薇は、見たことないよ。うまれて初めてだ。こんな薔薇には、キット、由緒のある長い、長いラテン語の名前が付いているにちがいない」。学生は屈かがむが早いか、薔薇を一瞬でつみとってしまいました
学生は帽子をかむると薔薇の枝を握って教授の家に一目散
教授の家に着きますと、入口の扉の玄関前で、お嬢さんがブルーの絹糸を巻いており、その足元には仔犬こいぬがひかえていました
「赤い薔薇を持ってきたら、僕と踊ってあげるとそうおっしゃいましたよね」。学生は急せき込み話しかけます。「お持ちしました。これ以上赤い薔薇はありませんよ。今夜はこれをどうか胸につけて僕と踊ってください。どれだけ僕があなたを愛していることか、この薔薇が証拠です」
しかしお嬢さんは浮かない顔です
「私のドレスに似合いませんわ」とつれない返事。「それよりか、よくって? 侍従の甥御さんが本物の宝石をわたくしに贈ってくださいましたのよ。宝石が花なんぞより何倍もお金がかかることはおわかりでしょ」
「はっきり言わせていただこう。あなたには感謝のこころというものがない」。学生は憤怒ふんぬ冷めやらず、街路に薔薇を投げ捨てると、薔薇は溝にはまり、そこへ来た台車の車輪が薔薇をガタゴト踏みにじって行きました
「私に、感謝のこころがない、ですって?」 お嬢さんはやおら演説を始めました。「じゃあ、あなたにようくわかるように、おしえてさしあげるわ。この作法も何もわきまえない、野蛮人! そもそも、あなたはなにサマなの? ただの学生じゃない! 侍従の甥御さんは銀のバックルをつけたお靴を履いてらっしゃるけど、あなたはどうなのか知らね!」 演説がおわるとお嬢さんは椅子から立ち上がって家のなかに入っておしまいになりました
「ああ、愛とは、なんと愚かなものなのか!」 教授宅からの帰り道、あるきながら、学生はひとりごちました
You are very ungrateful. この学生の台詞にはむろん皮肉がある。読者からすれば、「それはお前やろ」と。命とひきかえに赤い薔薇をお前に渡したナイチンゲールの無償の愛に、お前こそ感謝しとらんやないかと。『無憂の王子』でも似たような場面がありましたね。葦子を責めるツバメこそselfishやないかというところ。恋愛におけるディスコミュニケーション。そこから齎される悲劇と残酷さ。ナイチンゲールがじぶんの命とひきかえに月夜の歌唱のちからで作り上げた赤い薔薇がふみ潰されていく、ああ無情。西村は「恩知らず」と正しく訳出しているが、富士川のごときは「不愉快な人」と訳している。訳文上意味は通じても、内容を十全に理解して選択した訳語とは到底おもわれない。なお、命を犠牲にしたまごころが、世人の厚かましさによって踏みにじられる話に、芥川龍之介の『沼地』(大正8年)があるのは、想起してよいだろう文学的聯関である
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