ツバメは、暗黒小路へと向かいました。飢えたこどもの白い顔。真っ黒な街路をちからなく見つめています。橋の下ではふたりの少年が暖だんをとるために抱き合って寝そべっています。「おなかすいたね」とふたり頷うなづき合っていると、そこへ番人の「ここで寝ちゃいかん」の大声。しかたなく雨のなかをあてどなく彷徨さまようふたり。ツバメはこのことを王子に告げ知らせます
王子が口を開きました。「私は純金の箔はくで覆われているのだよ。それを一枚一枚はがしてね、あわれな貧しき者たちへ分け与えてやっておくれ。黄金があれば人は仕合せになれる。世間はそんなふうに考えるところだからさ」
一枚、いちまい、ツバメは純金の箔を剥はいでいきました。無憂の王子からは栄光の輝きと生命の色彩がうしなわれ、悲惨な姿になり果てました。一枚、いちまい、ツバメは純金の箔をまずしき者たちに分け与え、少年たちの頬はバラ色に、ほがらかに笑い、町で遊びに興じるようになりました。「毎日ごはんが食べられる!」と喜びの声をあげています
そうして、雪の日がやってきました。雪の日のあとに来るのは霜しもの日です。町はまるで銀製かとみまごうがごとく、目にもまぶしくキラキラ光り輝いています。水晶の短剣のごとき細長いツララが家々の屋根からぶらさがっています
dark lane. black street. 聖書の伝統的な修辞学において、darkやblackにいい意味はありません。「神」のいない世界だからです。なので「暗黒」「真っ黒」とハッキリ訳してみました。修辞に変化が出るのは、黒人解放運動がアメリカでさかんになる1960年代以降です。ルイ・アームストロングの名曲” What a Wonderful World”(1967)の歌詞中、The bright blessed day, the dark sacred night.の前半はきわめて普通ですが、後半は、当時かなり斬新な修辞であったはずです。darkは通常邪悪と結びつく筈が、聖なるものsacredとされているのですから。同じような「価値転倒」はショッキング・ブルーの名曲”Venus”(1969)でもみられ、すべての男を狂わす女神ヴィーナスは、銀の炎のように燃え、水晶の瞳をもっていると、神にふさわしい「輝き」を以て形容されるのですが、Black as a dark night she was. Got what no one else had.と漆黒の肌をもつ黒人とされています(”Black is beautiful.”)。以上のことは、だれかの書いた本を読んで知ったことではありません。じっさいにワイルドのこの童話と上記の曲の歌詞を読んで、私が考えたことです
dull and grey. こうして考えてみたときに、金箔がはがされた王子の姿を形容するdull and greyの訳は、逐語訳ではとうてい間に合わないことがよくわかると思います。dullを「冴えない」とかgreyを「灰色」と逐語訳している訳者ばかりですが、これらの人はなんにもわからずに日本語に置き換えているAIと選ぶところはありません。知能ゼロどころか「マイナスワン」です。輝きがうしなわれたことをdullと呼んでいるのです。色彩がうしなわれたことをgreyと呼んでいるのです。「栄光と悲惨」の対比。ワイルドがこの童話のなかで、ドスン!とゴジラの足音のごとき響きをもって、中心に置いている修辞法が、これです。悲惨のきわみに落ちた王子。これと対比されるのが少年たちの栄光です。だから少年たちの頬はバラ色rosyになっているのではないですか。町の風景もきらきらと輝いているglisteningのではないですか
栄光と悲惨のコントラストを鮮烈に示す、というのは、じつはこの童話に限らない、ワイルドの美学の基本スタイルということです。故・山田勝先生の教示によると、当時一大物議を醸したワイルドの小説『ドリアン・グレイの肖像』における、「ドリアン・グレイ Dorian Gray」の名前じたいにハッキリと示されている。ドリアンは、フランス語のd’or(=of gold)から来た言葉だから、と。ナルホド!
いろいろな解説本に、ワイルドのこの童話にはキリスト教の色が濃いとあるのですが、具体的にどこがどうだという説明は見たことがありません。しかたがないから私の考えたことが上記ないしこれまでの解説です。しかし、あまりよく考えずとも、ワイルドがこうだよとじつにわかりやすく親切に教えてくれているので、ワイルドの童話は、ほんとうにいい「英語」の教科書です
愚痴ついでに言うのですが、これは何を、或はだれを以て「美しい英語」というか、じぶんの考え、ないし美感を示せないおおかたの英語教師の責任だと思います。私はこころみに何人かの英語教師に訊ねてみたことがありますが、どれも同じと言わんばかりの答に深く失望してきました。しかし、日本語でさえ、鷗外と漱石と荷風で、文章はちがうでしょう。美しい日本語というものはあり、たとえば芥川龍之介の文章はうつくしいのです。助詞の「が」を避けて「の」を選びがちであった芥川の上品さを攻撃した小島政二郎が、いくら面白いエピソードを提供してくれたにせよ、小島の小説が今後読まれ続けることはないかわりに、芥川の文章は未来永劫、読まれ続けることでしょう。なぜなら文章がうつくしいからです。うつくしくない文章はそれだけで、文学を名のる資格がないのです
話はおいて、ワイルドの英文を、じぶんの鑑識眼を以て、美しいと「わかる」経験を、じぶんの生きている間にもてたことをよろこび、じぶんをなぐさめたいと思います
付)the living. これをどう訳すか、難しいところ。「生者」ととっている訳者が殆どで、まちがいでもなかろうが、私は「この世の生活というもの、世間」と取った。価値観の相違をつき離したかたちで示せる利点があるかと思う
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