午後はいつも、学校から帰る道すがら、こどもたちは、大男の庭園に行って遊ぶのでした。それは広大な、すばらしい庭園で、緑の芝がなんともやわらかいのです。緑の原のあちこちに美しい花が咲いていて、まるで光かがやく星のようでした。庭には十二本の桃の木が植わっており、春にはピンクと真珠のえも言いやらぬ淡い色合いの花を満開に咲かせ、秋には豊潤な実をむすぶのです
小禽ことりは樹に腰かけて、蜜の滴したたるような優しい声で歌うものですから、こどもたちは遊びをやめて、小禽ことりの歌に耳をかたむけたものでした。「ここは天国だね」と庭にあそぶよろこびを口々に洩らすのでした。ところが、ある日、大男が戻ってきたのです。大男は、コーンウォルに住む旧友の人喰鬼のところへ訪ねて行って、七年もそこで過ごしていたのでした。七年かけて、というのも、大男は、会話の能力に人よりいささか劣るところがあったからなのですが、ようやっと口頭の用件をすませたのでじぶんの城にもどる決心をしたのです。しかし、もどってきてみると、じぶんの庭でこどもたちがあそんでいるではありませんか
「おまえたち、ここで何をしておる?」と敵意をすこしも隠さない声で大男が吼えたものですから、たまりません。こどもたちはちりぢりに走って逃げてゆきました
the selfish giant. これを「わがままな」大男とか巨人と訳しているのが、学足らずの西村と富士川なのだが、「わがまま」では意味が通らんだろうと文句を言ったのが柴田耕太郎氏。もっともである。子供たちに意地悪しているわけなので「意地悪な大男」はどうかと言う。はるかにましだが、ワイルドは、他人に善をなすことに尊さを見出し、selfishな考えや態度を超克していくことを唱えている人なので、「意地悪」という感情的なニュアンスの言葉はどうもなあと思う。もっと世の中の善悪、幸福の実現をかんがえさせる言葉がよい。物語を読んでいくとおいおいわかるが、物語の内容をふまえると、「ひとりじめする大男」という訳がいいとおもう
sang so sweetly. 不相変、西村と富士川はsweetを「きれい」とか「美しい」と訳すのだが、sweetの原義に従い、私は芥川龍之介にならって(『葱』大正8年)「蜜を滴らすやうに」と訳したい
How happy we are here. 「ぼくたちはここでなんと仕合せなんだろう」(西村、ほぼ同じ、富士川)。こんな日本語にして恥を知れというのが柴田耕太郎氏で、もっともである(「仕合せ」ではおおげさすぎる。もう少し日常語に落としたほうがよいだろう、と)
for his conversation was limited. ここでのconversationは「話術」くらいの意味(柴田耕太郎)。オスカア・ワイルドや芥川龍之介は、機知に富んだ会話が得意で座談の名手だったが、ざんねんながら、大男は口べただったのである。西村は「話題にも限りがあった」と誤訳している。富士川は西村の訳文を「ときおり参照させていただ」いたらしいが、この大うそつきは、まるごと引き写して、誤訳をもう一度くりかえしている
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