例の絵本 Frog and Toad by ARNOLD LOBELから「お庭づくり」を訳してみます。このお話は、大人にも、実に、教えるところ、大きいので。
お庭づくり
かえるくんは、じぶんのお庭で庭仕事。そこに立寄ったがまくんでした。「なんてすばらしい御庭なんだい、かえるくん」。「ふふ、いいだろう。だけど、いい庭をつくるっていうのは、これでたいへんなんだぜ」。「ぼくも庭をつくりたいなあ」とがまくん。「ホラ、ここに花の種がある。きみの家の土に埋めてみなよ」とかえるくん。「じきに庭ができるよ」。「すぐって、どれくらい?」とがまくん。「あっという間だよ」とかえるくん。
がまくんは家まで走って帰りました。花の種を植えたがまくん、さっそく「種たちよ、芽を伸ばせ」と念じます。庭を往ったり来たりして待ちますが、種たちが芽を出す気配はありません。そこでがまくんは地表まで顔をちかづけて、どなります。「種たちよ、芽を伸ばすんだ!」 がまくんが地面をじっと見つめてみても、やはり種たちが芽を出す気配はありません。
がまくんは顔を地表すれすれまで近づけて大声で訴えます。「さあ、種たちよ、芽を伸ばせ!」 そこへかえるくんが小道を駆けてきました。「いったい、なんの騒ぎなんだい?」 「ぼくの種が芽を出そうとしないんだよ」とがまくん。「きみは声がでかすぎるぜ、がまくん」とかえるくん。「それだと、種たちが恐れをなしちまうよ」。「ぼくの種はこわがって芽を出さないのかい?」とがまくん。「もちろんさ」とかえるくん。「二三日は、ほっといてやるんだ。お日様の光を浴びさせて、雨がふるに任せるのさ。そうしていたらじきに芽が出るさ」
そのよる。がまくんは窓から外をみています。「ちぇっ! ぼくの種はまだ芽が出ないや。種のやつ、このくらやみをこわがっているにちがいない」。がまくんはロウソクを持って外に出ました。「種にお話を聞かせてやろう。そしたらおびえがとまるだろう」。がまくんは種たちに長いお話を読んでやりました。
つぎの日は朝から晩まで、がまくんは種たちに歌をうたってやりました。その次の日は詩を一日中朗読し、そのまたつぎの日はヴァイオリンを終日演奏して種に聞かせてやったのです。
がまくんは土のうえを見つめますが、種が芽を出す気配はやはりありません。「どうしたらいいんだい」とがまくんは嘆きました。「こいつらときたら、世界中でいちばんのおびえ虫と来たもんだ」。疲労困憊したがまんくんは、うとうと寝入ってしまいました。
「がまくん、がまくん、起きなよ」とかえるくん。「きみの庭をみてごらん」。がまくんは庭をみました。ちいさな緑の芽が大地から生えて来ています。
「とうとう、やった」。がまくんがさけびました。「ぼくの種は、おびえの虫がおさまったんだ」。「これできみも庭の主になったね」とかえるくん。「うん。だけど、かえるくん、君はただしかったよ。なるほど、庭づくりというのは、これは、たいへんな仕事だよ」
さあ、どうでしたか?
最近の記事で、私は、人生の本質は「待つ」ことにあると書きましたが(「人生とはなにか?」)、この童話は正にそうだと私の説に賛成してくれているようです。
患者さんには時どき話していますが、がまんづよく通院を続けている人はかならず良くなっているように思います。「待つ」がまんができない人たちは他人に悪態をついてばかりでいつまで経ってもよくなることはけっしてないでしょう。
ある「趣味」を持っている大人たちも、これを読んで苦笑し、じつに身につまされる思いがするのではないでしょうか? がまくんのこどもっぽいおろかさを他人ごとと笑えない…。その「趣味」とは何でしょうか? これについては、また別の機会にお話しましょう。
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