けれども、ナイチンゲールは、若者のかなしみのわけを知っていましたから、柊樫ヒイラギカシの枝にとまって、黙もくしたまま、恋愛の奥深さについてかんがえをめぐらしています。やにわに、栗色のつばさを広げると、ナイチンゲールは飛翔し、天高く空に吸い込まれていきました
ナイチンゲールは木立を過ぎること影法師のごとく、又、影法師のごとく庭をよぎっていきました
叢くさむらの区画のまんなかに、うつくしい薔薇の木が一本あるのを見つけるや、まいおりて、その枝にそっと羽をやすめます
「赤い薔薇を私にちょうだい」。ナイチンゲールは高い声を出して鳴くのです。「おかえしに歌うわ、蕩とろけるように甘い愛の賛歌を」
薔薇の木は、つれなく、首を横にふりました。「私の木に咲くのは、白薔薇なのだ。白きこと波の泡のごとく、山上の冠雪よりも白き薔薇。わがきょうだいのところへ行くがいい。ふるき日時計のまわりに繁るわがきょうだいのところへ。ひょっとすると、そなたの望みのものをくれるかも知れぬ」
ナイチンゲールは言われた先へ訪ねてみました。「赤い薔薇を私にちょうだい」。高い声を出して鳴くのです。「おかえしに歌うわ、蕩とろけるように甘い愛の賛歌を」
the mystery of Love. 逐語訳は「神秘」と訳しておりますが、その訳語ではどうもねえ
her brown wings. 逐語訳は「茶色の翼」ですって。クスッ
like a shadow. 私の教養がたりないので、ハッキリしたことが言えないのがざんねんですが、シェイクスピアの戯曲の台詞が背景にあるのでしょうね。くわしい人からご教示あるとうれしいのですが。これは言わずもがなのことですが、like a shadowは、ナイチンゲールの死を暗示するフレーズです。なぜわかるかと言われてもこまります。朗読すれば、それはおのづと読者に伝わることですね
and she lit upon a spray. 「下りる」に、ツバメが王子の台座にとまるところで、alightという言葉が「無憂の王子」でも出てきましたが、lightという動詞には、古語として、鳥などが枝にとまる意味があるそうです。ワイルドの言葉の尚古趣味のほかに、「善き」ものは天使のごとく「かろく」、「光」あり、このナイチンゲールは「善」なる存在である、ということをキリスト教的に暗示する目的も、語の選択には、働いていること、まちがいないでしょう。このことは、物語のその後の展開においても優に証明されます。ナイチンゲールは愛の賛歌を一晩中うたい続けることで、真紅の薔薇をうみだす「奇蹟」を起こすわけですから。この「奇蹟」は神さまに近い存在でなければ、起こすことができないからです。証拠の一端に、芥川龍之介の「きりしとほろ上人伝」の結びを想い出すのも、わるくない文学的聯関でしょう。
その夜この方流沙河のほとりには、あの渡し守の山男がむくつけい姿を見せずなつた。唯後に残つたは、向うの岸の砂にさいた、したたかな柳の太杖で、これには枯れ枯れな幹のまはりに、不思議や麗しい紅の薔薇の花が、薫しく咲き誇つて居つたと申す。
一高時代に、「ワイルドとかゴーチエとかいふやうな絢爛とした小説が好きであつた」芥川のことであるから、上の一節は、存外ワイルドのこの物語の影響がじつはあるのかも知れませんが…
my sweetest song. 逐語訳者どもは「あたしのいちばんきれいな歌」とか「あたしの一番美しい歌」とか訳しているが、ナイチンゲールが愛の賛歌を歌う鳥ということを忘れている、こいつらの頭は本当にどうかしている。恋人に、sweetheart, honeyとよびかける位は常識だろうに。芥川龍之介は『葱』(大正8年)という小説の中で、ナイチンゲールの歌声がどういうものであるか、的確に叙述しているから、引いておこう。「夜鶯ナイチンゲールの優しい声も、…蜜を滴したたらすやうに聞え始めた」
この記事へのコメントはありません。