レオ・レオーニの名前が日本で知られているとすれば、この『スイミー』が小学校の国語教科書に長らく採用されているからなのだそうです。私らの時代には知らない話で、私が今もおぼえている小学校の国語教科書の話と言えば、宮沢賢治の「やまなし」あるのみで、「クラムボンはわらったよ」のフレーズを忘れることはこれからも決してないでしょう。えりすぐられた詩心のみが人心をささえていることがあるのだと確信しています。
小魚のむれ(school)がどこかの海の片隅でしあわせに暮らしていましたとサ。みんな赤い中に、ひとりだけムール貝のように黒いのがいて、きょうだいよりも速くおよぐ。だから名前は「スイミー」とついた。
…唱歌「めだかの学校」はschoolを直訳したのだろうか、もしそうだとしたら(実際はどうもそうではないようだが)、直訳して却って詩情がうまれた例だなあと想像させる第一文です。原文はA happy school of little fish lived together…と始まるのですが、このhappyを日本語では上記のように訳すのが順当でしょう。しかし英語では最初にhappyとおいて、happyのしあわせなムードを最初にぶつけて読者にイメージさせようとするもののようです。同じ作者のA color of his own(『じぶんだけのいろ』)でも同様の例はあって、The sad chameleon has a problem.で始まるのですが、悩みがあるから悲嘆にくれるのでしょうが、英語では最初からsadという言葉をボンとぶつけて、さあ、みなさん、聞いておくれよ、というムードを読者に喚起するところが「直球」的で面白いなと思います。
この絵本のなかでいちばん強烈なページが次。
それは最悪の(bad)日だった。あのマグロ、疾風のスピードで(swift)、凶悪な(fierce)、猛烈に腹をすかせた奴が、ダーツの矢のごとく(darting)、波濤を突っ切ってやってきた。みんなひとのみで喰われちまったサ。逃げおおせたのはスイミーだけ。
…ここでも力強い言葉のひびきがよくわかります。bad, swift, fierce, dartingなどがそれでしょう。親が子に読み聞かせることを前提とした絵本の音読で、英単語の語感はよく身につくものと思います。じっさい、声に出して読んでみると、そのことは十分体感できると思います。
次がこの絵本の中で私がいちばんすきな絵。
…ひとりぼっちになったスイミーの孤独がこどもごころによく伝わる絵だと思います。
とおく深海のせかいに泳ぐスイミー。かれの心中を去来するのは恐怖。孤独。悲愁。
…英語でおもしろいと思うのは、深海deep seaといえばそれでたくさんだろうと日本人が思うようなところを、deep wet worldなどと言い慣わすところです。日本人の英語感覚ではwetイコール「湿った」位しかないので、なんかシックリしないところがあるのですが、英語でwetといえば、「水そのものがある」というイメージなのだなと逆にわかります。
しかし、海中にはふしぎの生物たちがいっぱいいて、驚異のいきものにつぎからつぎへと出会ううち、スイミーはまた元気がわいてきました。虹色のジェリーで出来たクラゲ(medusa)に出会ったり。
…むすこがこの絵本でいちばん気に入ったのは、この「メドゥーサ medusa」という言葉。子供というのは、髪が毒蛇で出来た邪神とか、そういうのが好きなんですわな。
伊勢海老は、水で動く機械のように、歩き回っている。
へんな魚たち。見えない糸に引っ張られているかのよう。
海藻の森。べっこうあめ(sugar-candy)のような岩から生えている。
ウツボ。しっぽの先がどこにあるのかあまりに長いものだからおぼえられない。
そしてイソギンチャク(sea anemones)は、風になびくピンクのやしの木(palm trees)のようだ。
…この、スイミーがいろいろな海のいきものに出会う、深海の旅がこの絵本でいちばんすばらしいところだと私は思っています。この展開は、『ひとあしひとあし』と似たパタンです。次から後半。
そのとき、岩と海藻のくら陰に隠れたじぶんのなかまをスイミーはみつけました。「でかけようよ。泳ごうよ。楽しもう。世の中を見ようよ!」スイミーはほがらかに誘います。「とうていだめさ」赤い小魚のむれはいいます。「デカい魚にぼくら、みんな食われちまうよ」。「だけど、ずっとそこにかくれてばかりも居られないじゃないか、智慧をしぼるんだ!」スイミーは反論しました。
スイミーは考えに考えに考えぬきました(Swimmy, thought and thought and thought.)。
…英語の絵本をいくつかみていると、「必死で考えました」というのをthought and thoughtと言うんだなとすぐにわかります。こどもっぽい表現ですが、必死さが滲み出ているので、このそぼくさを笑っちゃいけません。
やおらスイミーはさけんだ「わかったぞ!」「編隊を組んで、デカい魚のように泳げばいいんだ」
じぶんの定位置をめいめい守って密集して泳ぐのサ。
みんながひとつの巨大な魚の編隊を組めるようになったとき、黒色のスイミーは魚の目の位置におさまりました。「ぼくが目になろう(I’ll be the eye.)」(谷川俊太郎訳)。そうして朝はつめたい海水のなか、昼は正午の日差しをあびながら、デカい魚を追いかけまわし、追い払いましたとサ。
…この作品にある主題というのは、英雄主義ですね。レオーニさんは当時の良心的インテリにふさわしく、共産党にシンパシーをもっており、「芸術家は社会を善導するべきだ」と生涯考えていたそうなので、「前衛主義(アヴァンギャルド)」とも言えます。いまどきそぼくに選良主義を唱えると、いろいろな方面からややこしいことを言い出すひねくれた連中が山ほどあるのはわかっているので、志ある人は肚のそこに深く秘めておくのが最も得策ですが、じつはそぼくなこころは常によりよきものを求めるものですから、このシンプルで明快な作品がこどもたちのこころにこれからも勇気とよろこびを与えつづけることにまちがいはありません。
レオーニさんの次作はTICO and the Golden Wingsで、ここでは、黄金の羽を「願いかなえ鳥」から与えられたチコという鳥が、それがために仲間からはねたまれます。チコは黄金の羽を困窮した人びとに与えて善行を施し、黄金の羽がぬけたところから仲間と同じ黒い羽根が生えてきて、ぜんぶ生え変ると仲間から「同じ仲間」だと迎えられるというストーリーで、英雄主義ににがいひとひねりが加えられています。しかし、これだと、息子は「難しい」と言うんですね。チョット作為や理窟が先に立って、物語を理解するうえで明快な像を結べません。読後感もサッパリしているとは言えません。たぶん、これは失敗作で、絵本をつくるというのはむつかしいと思わされます。『じぶんだけのいろ(A color of his own)』も、そういう意味ではあまり成功しているとは思えません。感動がないからです。息子を実験台にしてその反応をみると、いろいろ私も気づかされることがあります。
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