二月のすゑに引越をした
診療所へは片道二時間の電車通勤となつたので、車中、芥川龍之介全集を読んでゐる
既に第一巻を読み了おへ、現在は第二巻めである。芥川龍之介といへば自殺をしたのが有名で、途中そのことが気になり、追悼文集に手をのばしたら、交友のあつた人びとの思出の記がおもしろい
『芥川追想』(岩波文庫)
ぶあつい一冊だが、スラスラ読める。四十八人の寄稿が選ばれてあるが、もちろん玉石混交で、味読できる程のものを草した人は数へるほどしかない。私の味読したのは、正宗白鳥、久米正雄、日夏耿之介、内田魯庵、横関愛造、永見徳太郎、諏訪三郎、芥川比呂志の八編である
志賀直哉と小宮豊隆は、追悼といふに、言はずもがなの嫌味を書き散らして、人間性の下等ぶりを天下にしめしてゐる。芥川を愛してやまなかつた太宰治が、志賀直哉を執念しゅうねく耻を知れと批難攻撃してやまなかつたのも肯ける
芥川の主治医だつた下島勲は「芥川君と読書の速度」をあらはし、そのあまりの「電光石火的過眼の速度」におどろいたと興味深いことをおしへてくれる
彼が英書を読み耽る特徴は、本を少し斜めの位置にまげるといふことです。正面からは感じが強すぎるといつてゐましたが、何のことはない恰も、事務官か銀行家が計算表でも見るやうな構へと頁の繰りかたであつたといふのが、飾りのない私の印象です。(前掲書381頁)
パラパラとやつて、一日に千二百頁くらゐはスラスラ読んでしまつたといふのである。しかしこの「速読」は、芥川にかぎらず、太宰治や、私がこのブログで翻訳しているオスカア・ワイルドにおいても、有名なエピソオドで、天才の証でもあらう。目を剥むくくらゐ沢山読まなければ文章は書けないし、それくらゐの厖大な量の書物をよめば勘所も自然よくなるので、読書のスピイドは益益上がらうといふものである
ときに私はさいきん逐語訳の愚をこれでもかこれでもかとけなしてゐるので、その点、じつに興味深かつたのは、芥川が大学を卒業後、横須賀の海軍機関学校で英語教師をしてゐた時分の思出をつづつた諏訪三郎氏の文章であつた(前掲書344-58頁)。芥川にもむろん、知らぬ単語は出てくる。そこで適当に訳してゐると、それにけちをつけてくる学生も出るものである。しかし芥川は平然とかう言つたのださうである
君は、そんな一つ一つの単語を気にしてゐるから、点がわるいのだ。僕は英文を君たちに教へてゐるのであつて、単語を教へてゐるのではない。そんなことは、君がひとりで勉強すればよい
ううむ。すばらしい啖呵たんかではないか。胸がスツトする
私に何よりうれしいことは、芥川教官は、逐語訳を愚なものとして退ける、徹底した意訳派であつたことを知つたことであつた
芥川教官は、…すらすら読んでから、意訳して行つた。それも、原文にないことまでつけ加へて、思いきつた自由な意訳をしたので、学生たちをびつくりさせてしまつた
彼の教授ぶりは、ひどく高踏的で、英語のできないものはなかなかついて行けなかつた。前にも述べたとほり、ひどい意訳で、試験の答案などでも、ばか丁寧に直訳そのままのものには、点数がひどく過酷であつた
点数が辛いのは当然である。逐語訳をして平気な連中はじぶんの頭をちつとも使つてゐないからである。かういふ連中は日本語力じたいあやしいのである。日本語ができてゐなければ英語だつてできない筈である。そもそも日本語と英語はちがふ言語なのである。林檎とアツプル、犬とドツグは、音も文字も意味もちがふのである(わかるかな?)。だから原文にないことまでつけくわへる意訳こそ、理解してゐるからこそできる芸当にして正訳なのである
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