小堀杏奴に『晩年の父』(岩波文庫)といふ著作がある。
父とは、鷗外のことである。杏奴(アンヌコ)は、その次女である。長女は茉莉(お茉莉)で、ひとくせもふたくせもある文学者であつた。
鷗外は観潮楼にすみ、当時は左程でなくとも、今でいえばまちがひなく大邸宅だろう。鷗外は馬に跨またがつて役所まで出勤し、ひまがあれば、『スバル』のなかまなどと歌会を催したり、いちどは、荷風の訪問を受けたりしてゐる。ざつくばらんな応対に、まじめな荷風青年は生涯好感を抱いたものらしい。「観潮楼」の名は、江戸の昔、江戸湾の水がはるかに見えたといふので、その名がついたらしいが、明治の代にも見えるのは難しく(見えないと正直に言った妻の言を鷗外は喜んだ)、現代は更にそんなことなど望むべくもない『森鷗外記念館』とやらいふ、現代建築のコンクリートの醜い塊になり果てた観潮楼だが、杏奴たちがまだこどものころは、広い庭の中に、四十坪ほどの、お花専用の区画があり、家人は「花畑」と呼んでゐたといふのである。なんと、詩的で、健康的で、愛らしい響であらう。
垣根の向うは相当広い庭で、あらゆる花といふ花の咲乱れた、思出しても素晴らしい処であつた。(前掲書119頁)
いつたい、どんな花が植栽されてゐたのか、それを窺へる記述はいくらもあるが、それよりも、読者各自の「花畑」の空想にゆだねたほうが、よいゆめが見られさうなので、廃よしにしておく。




