携帯電話が普及する以前、受験国語の現代文の世界では、「コミュニケーション」に関する評論文がやたらめつたらに出題されてゐた。私と同世代で大学受験をした人びとなら覚えがキットある筈である。そんな駄文を切り貼りして問題を作問してゐた出題者ども、忘れたとは、言はせないぞ。
そこで文章を書いてゐたのは、衰微する一方の日本の言論界で、駄文を書いている、二、三流の大学教授で、今は知る人もない。内容はむろん愚にもつかぬことである。以前に現代国語など、勉強するだけ、頭をわるくすると言つたのは、これが一例である。もつともらしく講釈してゐた、予備校講師よ、責任をとれ。
その後「コミュニケーション」といふ言葉は専らNTTの宣伝用語となり、「ゼロ、ゼロ、ワンダフル」とか、「世界中の人びとと繋がらう」とか、迷惑なことを言ひだした。その結果が今の京都で、ガイジンばつかりの街頭は、こゝはどこの国かと言ひたくなる。
そのうち、インターネットといふものが普及し、これで益益ひとびとにベネフィットをもたらすのだと喧伝されたが、さうか? 忽たちまち「炎上」とかいふネット用語が流行しだし、「不用意な」発言をした人を、道徳的に狭量なまじめ人間たちがロシアのウクライナ攻撃よろしく、猛烈な量の書き込みミサイルで砲撃し出すのだから、発言者はたまらない。人は誰でも不用意な発言をするものである。それでこそ人間である。そこには、たいていいくぶんかの真実がふくまれてゐる。しかし、それが気に入らぬといふなら「言論の自由」の封殺である。「人間の否定」である。批難者は得意づらをしてゐるが(たいてい民主主義者・共産主義者である)、どうせ眉唾ものである。はたから見ていたら、おまへらこそ、慈悲なき虐殺者である。反人道主義者である。ナチスの連中となんら変らない。じぶんの中にも必ずや潜んでいる「悪」の自覚「攻撃欲」の自覚がないから、病根はふかい。私は、こんな連中の、衆を恃たのんだうすつぺらいモラル moral よりも、誰も直視したがらない、にがい真実 truth のほうにこそ、はるかに高い価値があると思ふ人間である。
たゞ、こゝでもお笑ひなのが「炎上」なる言葉である。いつたい世界のどこが燃えてゐるのか? ネット電源を切つてしまへば、とたんに消えてしまふやうな世界を「現実」と勘違ひしてゐるとしか言ひやうがない。インターネットの情報など99%どうでもよろしいくだらぬものである。見ろ、どれだけの悪辣下品な商売広告が流れてる? だが、いまは電車やバス内でスマホを覗いてゐない人はゐない社会になつてしまつた。私と同世代のいゝ齢をした男女でさへさうなのである。みんな頭がどうかなつてしまつたのだらうが、「ヴァーチャル・リアリティー」といふ言葉は、かなしや、これは現実化した。しかし、当初の目的であつた筈の、ひとびとの相互利益となるコミュニケーション、これは達成されずに、理解し合へない「ディスコミュニケーション」、その昏くらい闇が益益私にはひろがつてゐるやうに見える。
昔、山本夏彦翁は、言つた。
言葉は電光のやうに通じるもので、千万言をつひやしても分りたくない人には通じないものである。理解は能力ではなく、願望だからである。
山本夏彦(1915-2002)、といつても知らぬ人が多いだらうので、今後、その名言を気が向いた時に順次アップロードしていきたいが、私の文学上のお師匠さんである。もちろん面識はない。法律学の勉強が身につかず思い屈してゐた20代後半に、そのエッセイを読んで最初すこし反撥を感じたが、その底流を流れる自由精神にまもなく気づいて、爾来ファンになった。ほゞ全作品を読んで、文体をふくめて骨肉化したと思ふ。意図したわけでなく、勝手に身についてしまつた。私がおほきく影響を受けた文学上の師匠は、芥川龍之介、森茉莉、向田邦子、山本夏彦、高峰秀子、太宰治か知らん。機会あればまた書く。
サテ、この話題にかんして、イソップ Aesop に面白い寓話がある。滋味は深いと思はれる。「わかる人にはわかるが、わからない人にはいくら言つてもわからない」といふものである。このディスコミュニケーション問題があるかぎり、人びとの間に争ひ、諍いさかひ、国家間の戦争は避けがたいのであらうと思はれる。これこそ、インテリならば一度はまじめに考へてみるべきテーマであらう。話は最初にもどるが、私が若年のころ、末流の売文評論家ごときが書いたコミュニケーション論をばかにしたのは、彼らに、叡智や苦悩などをまるで感じなかつたからといふことになる。

元気いつぱいの若い雄鶏が汚泥をかきだしてゐると、おゝ、宝石を掘り出した。これは値打もんだなとはわかつたが、じぶんには扱ひかねたので、箴言めかして似合はぬことを口にした。「おまへは一級品だ。まちがいなくな。しかし、おまへは私の趣味にかなはぬのだ。おれさまとしてはだな、世界中の宝石をあつめて目の前にどうぞと突き出されるより、ひと粒でいゝから、美味なる大麦を喰へたほうが、余程好ましいのだ」
教訓「ある人には貴重でも、他の人には無価値といふことがある」
Notes: brisk: vigorous, active. affected: artificial and not sincere
されば、鶏になぞらへて、その事を知るべし。鶏は塵芥ちりあくたに埋もれて、餌食を求むる所に、いとめでたき玉をかき出だせり。鶏、かつてこれを用ひず。踏みのけて、己れが餌食を求むる。その如く、あやめも知らぬ人は、たゞ鶏に異ならず。玉のごとくなるよき道をば、少しも用ひず、芥なる色に染みて、一生を暮らすものなり、とぞ見えける。(『伊曾保物語』岩波文庫85頁)
チョットこれは「教訓」のニュアンスがちがひますね。たゞ、真実 truth、叡智 wisdom といふ「玉」が軽視されてゐること、鶏にはそも理解できないことが、より強調されてゐる。




