大学教授のつらがまへ 法学部と医学部の差

以前書いたエッセイ中、私は、神戸大学医学部は「学府」の名前に値せぬ、たゞの職業専門学校で、そこの教授連は「タダのおっさん連中」でしかないと言つたことを忘れてはゐない。これを読んで、私を不遜なまいきと思はれた人もあるやも知れないが、物事にはすべてプラスマイナスがある。単なる悪罵の意味でだけさう言つたわけではないことを、以下はじつに興味ぶかい話と思へばこそ、こゝに錄す。

私は、まちがつて、東大法学部を卒業してゐる。授業には碌にでなかつたが、ひとつの授業にいちどは出席をして、教授の顔を見てゐる。そこで見たのは、例外なく、自信に満ちた顔で、じぶんにまちがひがあるなぞ、思ひもしないやうな顔付であつた。傲岸不遜といふわけではないが、どこか、自信がないとか、もし間違ひといふものがあつたらどうしようといふ、ふあんの色が瞳にきざしてゐないのが、特徴的であつた。

むろん、そんなことは、神戸大学医学部に入るまへには、考へる由もなかつた。しかし、わたくしが神戸大学医学部に入つて、すぐに気づいたのは、どの医者にも(医学部の教授スタッフはすべて医者である)、例外なく、目の奥に「ふあん」の色があるといふことだつたのである。「できないな」と思はれる医者にはむろん、この先生は偉いなあと敬意を払はずにはゐられないやうな医者にも、目の奥に「不安」の影が隠れてゐた。

読者よ、このコントラストを何と考へる? 医学部に入つて、どの医者もくりかへし、用ひてゐたフレーズに、「医療に百パーセント大丈夫といふことはない」がある。さやう。これが科学的な認識なのである。医者にミスは許されないといふが、科学的には最善を尽したとて、ミスは避けられないのである。数学的に100%大丈夫といふ結論は、電卓をどれだけ叩いてみても、出てこないのである。どの医者にも瞳の奥にふあんの影が差すこと、当然であらう。

しかるに、東大法学部の教師連にはそれがなかつたとすると、こいつらは、人に訴へられるといふ可能性にさらされたことがないからこそ、あのやうな真面目づらをしてをれるわけなのである。だから、東大法学部の教師連は、いつまで経つても大学生のまゝ、のやうな幼い秀才面をしてもをれるわけなのである。

こゝで、問題を法曹の連中にうつすが、裁判官と検察官、この連中を読者はいかに考へる? 話の展開からみて、答はもはや明瞭だらうが、こいつらも、じぶんが他人から訴えられる心配から解放された連中なのである。現実にはいくらも誤審、誤つた訴追を行つてゐるのは明々白々、その数は無数であるにも不拘かゝはらず、なのに。「国家無答責の原則」といふ、こいつらに都合のよい法制があつて、かれらは個人責任をまぬかれてゐるのである。

しかし、そんなバカなことがあるか! 誤審、誤訴追をおこなつた判事、検事は、処罰されるべきであらう。数学も碌にできず、サイエンスのサもわからぬ、あたまのわるいド文系のこの連中には鉄槌がくだされてよいと思はれる。医療裁判において、実践的な医療知識も経験もないくせに、じぶんは医者になつたつもりでもゐるのか、病院や医師の判断には過失があつたとかへりくつを書いている裁判官は、一体どういふ神経なのだらう?

「敵は本能寺にあり」。裁判官や検察官をふるへあがらせるやうに法制を改革すべきである。その第一歩は誤審、誤起訴をしたやつらに処罰の途を開くことである。偏差値において、医者にはるかに及ばない彼らが罪をのがれて、彼らより遥かに高い医者には、屁理屈を設けて訴へられる可能性が開かれてゐるのは、あきらかに不公平 unfair である。

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