昭和歌謡曲厳選(2)

(2)敗戦後昭和21年~昭和34年

港が見える丘(平野愛子)昭和22(1947)年4月発売 (Victor)

東京ブギウギ(笠置シヅ子)昭和23(1948)年1月 (Columbia)

憧れのハワイ航路(岡晴夫)昭和23(1948)年10月 (KING)

銀座カンカン娘(高峰秀子)昭和24(1949)年7月 (Victor)

夜来香(山口淑子)昭和25(1950)年1月 (Victor)

買物ブギー(笠置シヅ子)昭和25(1950)年6月 (Columbia)

上海帰りのリル(津村謙)昭和26(1951)年7月 (KING)

ゲイシャ・ワルツ(神楽坂はん子)昭和27(1952)年8月 (Columbia)

お富さん(春日八郎)昭和29(1954)年8月 (KING)

この世の花(島倉千代子)昭和30(1955)年5月 (Columbia)

東京だヨおっ母さん(島倉千代子)昭和32(1957)年3月 (Columbia)

有楽町で逢いましょう(フランク永井)昭和32(1957)年11月 (Victor)

嵐を呼ぶ男(石原裕次郎)昭和33(1958)年1月 (Teichiku)

黄色いサクランボ(スリーキャッツ)昭和34(1959)年8月 (Columbia)

黒い花びら(水原弘)昭和34(1959)年7月 (東芝)

東京ナイトクラブ(フランク永井、松尾和子)昭和34(1959)年7月 (Victor)

可愛い花(ザ・ピーナッツ)昭和34(1959)年4月 (KING)

補遺版

東京の花売り娘(岡晴夫)昭和21(1946)年6月発売 (KING)

青春のパラダイス(岡晴夫)昭和21(1946)年11月 (KING)

ジャングル・ブギー(笠置シヅ子)昭和23(1948)年11月 (Columbia)

夢去りぬ(霧島昇)昭和23(1948)年2月 (Columbia)

ヘイヘイブギー(笠置シヅ子)昭和23(1948)年6月 (Columbia)

浜辺の歌(倍賞千恵子)昭和29(1954)年9月公開『二十四の瞳』劇中歌

たよりにしてまっせ(笠置シヅ子)昭和31(1956)年1月 (Columbia)

戦後のヒット曲に、慣例は並木路子(1921-2001)の「リンゴの唄」(昭和21年1月発売)を数え始めとしているが、私はきらいである。歌詞の稚拙さゆえに。2番以降がいけない。1番で溢あふれるなみだが、みるみる引いてしまう。平野愛子(1919-81)の「港が見える丘」を筆頭にあげるべきである。黒澤明の映画『酔いどれ天使』(昭和23年)のラストシーン、熱血医の志村喬が結核の癒えた美少女、久我美子の手をひいて、この歌を口ずさんでいる。

戦後の歌は、戦前の空気をひきずっているものと、「あたらしい」ものとが混在している。「港が見える丘」は戦前のブルースの系譜である。戦後の「あたらしい」ものとは、言わずと知れたブギウギである。服部良一がつくった笠置シヅ子(1914-85)の「東京ブギウギ」は、日本の音楽シーンにおけるatomic bombであった。そう言っても過言ではない。その後、5年間ほどは、「〇〇ブギ」と名のついた曲がいくらも出て来て、日本中を席巻した。「祇園ブギ」という曲さえ出た位である(京マチ子が主演した昭和26年の映画『偽りの盛装』)。

笠置の圧倒的な声量のパワーに打ちのめされない人は今もない。歌の魅力のひとつは、歌手の声量である。声量のとぼしい歌手を私はすかぬ。声量がつづくかどうか聴衆に心配させるような歌手がなぜ歌手なのだろう。灰田勝彦、田端義夫、鶴田浩二、村田英雄、このあたりはみなコンマ以下である。この点、岡晴夫(1916-70)はアッパレである。音吐朗々おんとろうろうたる伸びやかさは、聴く者の胸まで晴れてスッキリさせてくれる。

近江俊郎の「湯の町エレジー」(曲:古賀政男)や吉田正作曲の「異国の丘」が大ヒットしたようだが、現代もなお聴くに耐えるかというと、これは耐えない。あきらかに古いのである。戦前と共に死に絶えるべき曲である。美声の藤山一郎(1911-93)も、戦後は「青い山脈」(昭和24年3月発売)でオワッタ。これを当時の名曲と大衆はいまも選んでいるようだが(1989年のNHKアンケートで第1位)、いかにも大衆ごのみである。同名作品の映画監督、今井正(1912-91)は当時この曲を聴いて心底頭に来たそうだ。藝術的感覚をもつ人ならば、この感覚が正当であろう。今の時代もこれがいいとか言っている人は耳がどうかしている。これを作曲したのは服部良一だが、軍歌の名残でつくったということだ。「みんなで歌える行進曲風」をこころがけたのだそうだ。いかにもなっとくである。藝術映画ではなく、大衆娯楽作品をという映画会社の意向に、今井正には悪いが、沿って大成功したのである。しかし今となっては聴くに耐えない駄作だろう。

日本映画の名女優といったとき、まづはだれに指を屈するか? 意見は当然わかれるが、私は高峰秀子(1924-2010)としたい。笠置シズ子のすばらしさを当時見抜いた人として、女優の田中絹代(1909-77)や作家の三島由紀夫(1925-70)などがあるが、人間見識の眼力高いデコちゃん(高峰)もその一人で、笠置のステージを追っかけたほど、夢中になった。『銀座カンカン娘』では笠置と共演もはたし、主題歌まで歌った。高峰が作曲家の服部良一に「カンカン娘って、どういう意味ですか」と訊いて、ついに答を得られなかった話は有名である。

高峰は名匠・木下恵介(1912-98)と組んで、映画『二十四の瞳』(昭和29年)、『喜びも悲しみも幾歳月』(昭和32年)に主演し、日本人の紅涙をこれでもかこれでもかと絞り出させた人だが、『二十四の瞳』では、こどもたちとの修学旅行中、遊覧船上のシーンが白眉で、美声の女生徒のうたう「浜辺の歌」が、詞曲のうつくしさ、風景のうつくしさ、高峰のうつくしさと相俟って、しぜん涙がこぼれてしまう。

戦後の歌謡曲史において、美空ひばりは、不可欠の存在と位置づけられているようだが、これからも聴くに足る歌を残しているか、というと、それには重大な疑問符がつく。ひばりがデビューした当初、ひばりに眉をひそめた当時のおとなたちの違和感、これが今の時代に、ふたたび甦ってきているように思われる。ひばりは所詮、笠置シヅ子の「モノマネ」で出てきた、こまっしゃくれたイヤなチビである。ひばり幼少期のレコードは聴くに耐えぬ。おとなになって以後のひばりは、いかに美声だったとせよ、なるほど「うまい」とせよ、私のこころにはふしぎに全く響かない。モノマネは所詮モノマネ、人を感動させることはないのだ。ひばりはどこかアンドロイドに似ている。古賀政男に曲を得て、「柔」(昭和39年)や「悲しい酒」(昭和41年)という大ヒットがあると言うが、聴いて私の涙腺はすこしもゆるまない。ひばりの曲で私の唯一すきなのは詞曲の可笑しい「俥屋さん」(昭和36年)のみである。

いい曲は、やはり出だしからして、骨法正しく風格あり、いいとわかるものである。「夜来香」は聴いたはじめからああ、これはいい曲だと瞬時にわかるし、「上海帰りのリル」は端正なコンチネンタルタンゴの響きに背筋がピンとする。「リル」とふたたび暮したいと歌はねがうが、「リル」は戦前の繁栄の象徴で、「ベル・エポック(よき時代)」に会えることは、二度とないのだと思うと、今の世にいたるも、哀切の念は絶えることがない。

日本の楽曲娯楽は、三味線や歌舞伎など、所詮低調低俗なものである。けなしているつもりはなく、事実そうじゃないかと思うまでである。高尚高邁なものがあるというなら、どうぞ教えてくれ。しかし、低俗低調だから悪いと言いたいわけではなく、格に応じて、いいものはいいので、西條八十作詞、古賀政男作曲の「ゲイシャ・ワルツ」は、いかにもの風情で哀切満ちてぴったりである。神楽坂はん子(1931-95)はじっさい神楽坂で芸者をしていたから、本物である。春日八郎(1924-91)は藤山一郎のコンサートを聴いて、矢も楯もたまらず歌手になったという人。「お富さん」は歌詞を歌舞伎の出し物からとった曲で、語呂がいい。当時の小学生はみな歌ったが内容が内容だけに、眉をひそめるケチな大人たちもずいぶんいたそうだ。しかし、こどもたちの心をも動かす「言霊ことだまのちから」をこそ世の善人どもは思い知るべきだろう。

戦後の女性歌手で最初に指を屈するべきは、美空ひばりではなく、島倉千代子(1938-2013)と私は思う。島倉はもう亡くなってしまったが、歌手やアイドルのファンになる心理がこの歳になるまでわからなかった私も、島倉のファンにはなりたいと思った。かわいい。けなげである。人がらに邪気がない。何より声がいい。島倉が生きておれば、券を買ってコンサートに行くだろうと思う。しかし、もはやかなわないので、存命中のコンサート記録DVDをこの前アマゾンで買った。島倉のデビュー曲は「この世の花」で、島倉に稽古をつけてくれた作曲家の万城目正(1905-68)は島倉に「キミは本当に歌がへただねえ」と言ったそうである。なぜですかと島倉が問うたら、歌はひとつの世界をなしているから、それをまとめる「こころ」を歌手が歌にこめないと、歌は歌にならないんだよと教えてくれたのだそうだ。単純であるが深い教えである。詞・曲・声、この三つが一体になって、「感動」というものはうまれ、聴く者の目にはしぜんなみだがこぼれるしかけとなっているからだ。デビュー当時の島倉の声では、なるほど、なみだは出ない。しかし島倉は万城目の教えを受けて、精進をして、上手になってから吹き込んだ盤では、さすがである。

あんしんして聴ける声、それは何といっても、フランク永井(1932-2008)ではないだろうか? 最初から完成されている歌手だと思う。吉田正(1921-98)がつくった「有楽町で逢いましょう」「東京ナイトクラブ」は何度聴いても飽きることがない。

石原裕次郎(1934-87)の登場は、じつに「事件」のようなもので、父母の話によれば、とにかく「かっこよかった」のだそうだ。母は十代のわかいころ、働いてお金が入れば、裕次郎観たさに映画館へ急いだそうである。私には石原裕次郎の「よさ」があまりピンと来ない。しかし、声のよさはわかる。昭和33年の総天然色、日活のお正月映画『嵐を呼ぶ男』の内容は、銀座を舞台に、要はライバルのチャーリーと主人公、國分正一(石原)のドラム合戦と他愛もないものだが、当時の俗な流行り曲の中にこれを置くと、いかに破格で、新しく、「かっこよかった」か、それは明らかである。酒ぶとりしていない頃の裕次郎は、「かっこよい」というより「かわいい」と言うのが寧ろ当たっていると思う。客観的には共演者の岡田真澄(1935-2006)のほうがよほど美男子である。

スリー・キャッツは、映画『体当たりすれすれ娘』(昭和34年、松竹)の主題歌を歌ってデビューした。タイトルから推察されるように、お色気映画なのだろう。「黄色いさくらんぼ」は作詞が星野哲郎、作曲が浜口庫之助と、戦後登場したわかい才能によるものである。星野哲郎(1925-2010)は結核をわずらったことから作詞家に転じた青年で、むかしは、結核をわずらったために、長期にわたる療養の間、文学に親しんだ人が多かった。作家の藤沢周平(1927-97)もそうである。ハマクラこと浜口庫之助(1917-90)は、島倉千代子の二大代表曲「愛のさざなみ」(昭和43年)と「人生いろいろ」(昭和62年)をつくった人で、天才である。ハマクラの名曲として「みんな夢の中」(昭和44年、高田恭子)も逸しがたい。

水原弘(1935-78)は、経済観念というものをもたない勝新太郎(1931-97)の豪遊ぶりを見習ったのが運の尽き、酒に飲まれて破滅的人生をあゆんだ歌手。デビュー曲「黒い花びら」は不良の魅力満載で、若者から絶大な人気を得、昭和34年のヒット曲すべてをなぎ倒し、第一回レコード大賞を受賞した。作詞は永六輔(1933-2016)、作曲は中村八大(1931-92)。この曲はレコード会社に権利を売ってしまったので、二人には印税がはいってこなかった。懲りて坂本九(1941-85)の「上を向いて歩こう」(昭和36年)では、権利を売らなかった。永六輔はお寺の息子。「男のオバサン」みたいにまじめ、誠実な人なので、不良の水原にはいろいろ諫言したが、水原は御意見無用と聴く耳もたなかったということだ。

ザ・ピーナッツは、双子の女性ボーカル。姉の伊藤エミ(1941-2012)は沢田研二(1948-)と結婚歴がある。ザ・ピーナッツの代表的な曲と編曲は、ほとんどが宮川泰(1931-2006)の手になる。宮川は後代、アニメ映画『宇宙戦艦ヤマト』の作曲家として著名。しかし小医にとっては土曜日お昼のFM歌謡番組の司会としての元気な声が、いまも耳に残っている。「可愛い花」は、ザ・ピーナッツのデビュー曲だが、これは永遠の名作と思う。ザ・ピーナッツは、映画『ゴジラ』シリーズでモスラが出てくるときに「モスラの歌」を歌ったが、よけいなことと、こども心にはあまりすきではなかった。男の子としては、ゴジラとキングギドラがはでに勇ましく戦ってほしいのに、こういう女性陣が出てきては、戦意のそがれること、甚だしかったからである。

浅草芸人のロッパこと古川緑波(1903-61)は、長大な日記を残し、貴族趣味の見地から、じぶんのきらいな芸人の悪口をこれでもかこれでもかと書きこんであることで、後代の多大な興味をあつめているが、昭和23年6月の日記の一条では、笠置シヅ子と岡晴夫の二人を下品低俗の代表にあげて、あげつらっている。しかし、ロッパの嫉妬は、すなわち、このふたりの才能の証明であるわけで、笠置と岡の曲を多くえらんだ私の選曲にまちがいはないと信ずる証拠ともなって、ロッパの一文を見つけた私は、欣快きんかいに堪えない。

笠置シヅ子の代表曲としては『東京ブギウギ』と『買物ブギー』が挙げられて、『ジャングルブギー』は除けられるのがつねだが、後代のわかものになお取り上げられること多いのがこれ(たとえば、東京スカパラダイスオーケストラ)。だから、影響力はこの曲が最も大きいといえる。先に紹介した黒澤明の映画『酔いどれ天使』の劇中歌として、笠置は「ブギを唄う女」役でダンスホール・シーンに登場している。作詞は黒澤明。ちなみに、デコちゃん(高峰秀子)の初恋のお相手がこの黒澤明。しかしこの恋は実らず(実っていたら、日本の映画史もさぞかし変ったことだろう)、高峰は木下(恵介)組のふたりの助監督からひとりを選んで結婚するのが、医大中退の松山善三(1925-2016)。高峰は生涯松山ひとりに愛をつくした。

さきに藤山一郎は「青い山脈」で戦後はオワッタと書いたが、霧島昇についても同様で文字通り「夢去りぬ」となった。「夢去りぬ」は服部良一がすでに戦前、洋楽としてレコードにしていたもの(Love‘s gone)に日本語の歌詞をつけたもの。タンゴのメロディーが端正にして哀切。笠置と服部が起こしたブギウギブームも、笠置が昭和31年、歌手を引退して終焉をむかえた(笠置の引退に服部は激怒したらしいが)。最後の曲「たよりにしてまっせ」はコンガのリズムに乗って、じつに軽快。タイトルは、大阪を舞台にした、森繁久彌と淡島千景の映画『夫婦善哉』(織田作之助原作)が昭和30年に大ヒット、ラストシーンの森繁のセリフ「おばはん、たよりにしてまっせ」が日本ぢゅうで大流行したことを承けている。

 

 

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