猛暑日がつゞいてゐますが、表題は「あまのじゃく」と読む。夏の猛暑を雨ですこしでも和らげようといふ祈りを籠めてゐる。
むかし、山本夏彦翁は、大衆といふものは、泣けといへば泣き、笑へといへば笑ふ。たまらぬものだ、と嘆じた。そんなおほげさなことはあるまいと思つてゐたが、さうではない。翁の言つたことは真実であつたと心底思ひいたつたのが、近年日本でおとながランドセルを背負ふやうになつた珍現象である。小学生と大人の区別はこれでなくなつたのである。スーツを着たサラリーマンまでさうしてゐる。日本中、おとなこどもだらけになつた。おしまひである。
1980年代末、New Yorkerは、bycycleにスーツジャケット、靴はスニーカーで、ディパック(要はランドセル)を背負つて出勤するのがオシャレと雑誌に特集されたのを見て、こんなバカな格好ができるのは、さすがにアメリカ人だけだとひとり嗤わらつたことがある。背広をつくつてゐた親も声をあげて、可笑をかしいと嗤わらつた。しかしあれから50年ちかく経つて、これが日本で実現してしまつたわけである。どうして世を歎ぜずにゐられよう?
1980年代末当時、リュックサック(ランドセル)を背負ひ、スポーツタイプの bycycleでスマートに街中を走るわかものはまれな少数派にぞくした。スーツを着てさうしたら、バカなNew Yorkerと同じになるが、私はカジュアルな服装でさうしてゐたから、バカではない。このstyleは、いまも続けていゝ筈だが、私はもはや勘弁である。なぜなら皆がさうしてゐるからである。皆と同じは私が絶対にいやなものである。そしてもう私は若くはない。年寄が若い者の真似をすると、怪我をして碌なことがない。くりかへすが私はみなと同じでゐたくない。同じでゐて恥ずかしいといふ感覚をもたない人を理解できない。文章を「あまのじゃく」と題したゆゑんである。
むかし商店街ではスタンプ制が流行していた。量販店もそれを取り入れてポイント制が流行した。わかいころ、私はこのアイデアの支持者であつた。そのご、このアイデアはながらく廃すたつてゐたから、私は益益熱烈な支持者であつた。時うつり今は「アプリ」とやらで「ポイント」を蒐あつめるのが流行はやつてゐる。「アプリでポイントは蒐あつめてゐらつしやいますか?」 私はスマホすら、所持してゐるかどうか怪しいのに、店の者はわたしがスマホにアプリを陶然搭載してゐるものゝごとき顔付をしてゐる。にくらしいから、「おれは乞食ぢやあらせんぜ」と言つて遣やる。すると、店員は、さつぱりわからぬといふ顔をしてゐる。私は店員を相手にせず知らん顔をする。店員は「この偏屈オッサンが」と私を憎々しげに眺める。私がこんな偏屈をするのも、中年年寄までスマホのアプリに「ポイント」とやらを貯めて嬉々としてゐる様子だからである。私は大衆のかうした軽薄、世への迎合を何より憎むのである。なにゆゑに、おまへらは、「プライド」といふものは…。あゝ、もうやめよう。所詮、私は世に合はない。自分が生きてゐる「現代」に合はせようと、つゆ思はない。じぶんのうまれてゐない遠い昔になら、ぜひによろこんで合はせようと思ふくせに。ツマリ、「あまのじゃく」なのである。わたくしは、昭和の初はじめ、芥川龍之介が小説に書いた、この世にうまれてくるのは廃よすよと言つた、あの河童の赤ちやんなのかも知れない。






