ラ・フォンテーヌの『寓話』の第2篇に採用されたのが、この「烏と狐」。イソップは、大人むけの本になると、漢字で書かれることが多いのですが、カタカナで表記したほうがわかりよいと思ひます。
例によつて、人間社会といふものはもともと「平等」だつたのが、ずるい奴が出てきて、これを破壊し、「格差」に「文明」といふ美名をつけるほどに「堕落」して「腐敗」してゐると断じるジャン・ジャック・ルソーは、こどもたちがキツネの奸計をまねると有害な教育効果がうまれると反対してゐますが、世界中どこに行つても「美しい」国などないのですから、「キレイゴトを言ふやつには気をつけろ」といふ現実感覚をこどもは正確に学びとれるので、有益と判断するのがはるかに実際的です。ルソーのぎろんは、いつたいに空論ばかりです。ルソーの空論がもたらす「理想」はフランス革命で、数えきれないほどの人びとを断頭台のギロチンに導いたことを忘れてはならないと思ひます。


これも前回ご紹介した、楠山正雄編『イソップものがたり』(原本1925年、武井武雄画)から。ラ・フォンテーヌの韻文に敬意を表して、これも七五調の韻文で訳してあるところ、じつに藝があります。
ところで、「あざみ顔」とは何でせう? 私もはじめて聞く言葉ですが、薊あざみは棘トゲのある花ですから、文脈上、棘のある、ニヤリとした表情をして、くらゐの意味でせう。わからない言葉の二つや三つ、文章に混ざつてゐるのはいゝことだと、昔山本夏彦翁も言つてゐたことです。文章につまづくと、読者も記憶に残るからです。ひとは転ばないとけつして学びませんからねえ。
英文でも読んでみませうか。

カラスですが、crow といふのが多いですが、raven といふのもあります。カラスのくわへてゐるのはチーズです。上記の和訳本でもチーズでしたが、肉片であることもあります。もともとの古代ギリシャ語原典では肉片だつたやうです。『伊曾保物語』では肉ししむらになつてゐます。
Notes; beak:嘴くちばし think hard: 知恵をしぼる without equal:並びなき hue:色合ひ(tint) plumage:鳥の羽(feathers) exquisite: beautiful, elegant, graceful, etc. fair: just, equal
キツネは言ひました。「奥様、結構なお声と拝聴しました。しかしかなしや、奥様は、すこしオツム(wits)が足りないようでして」。教訓「お世辞にご用心」
「オツム」と訳したwitsであるが、最近のLaura Gibbsの英訳ではbrainsともっとダイレクトになつてゐる。 これはこれでわかりやすいが、何をトチ狂つたか、中務哲郎は『イソップ寓話集』(岩波文庫、109頁)で「烏さん、あんたにも心もあったなら、万鳥の王となるのに何の不足もなかつただらうに」と決定的な誤訳をしてゐる。第一、日本語で意味が通らない。英語でmindを心と訳す日本人はいまだに絶えないが、mindは頭脳をいう。心はheartである。なにかこれと似た事情による誤訳だと推察する。この寓話にカラスの「こころ」は関係ない。
しめくゝりは、日本古典から。『伊曾保物語』中巻第21話「烏と狐の事」(岩波文庫98頁)
ある時、狐、餌食を求めかねて、こゝかしこさまよふ処に、烏、肉ししむらを咥くはへて木の上に居れり。狐、心に思ふやう、「我、この肉を取らまほしく」覚えて、烏の居ける木の本に立ち寄り、「いかに御辺ごへん。御身は万よろづの鳥の中に、すぐれて美しく見えさせおはします。然りとはいへども、少し事足り給はぬ事とては、御声の鼻声にこそ侍れ。但し、この程世上に申せしは、『御声も事の外、能く渡らせ給ふ』など申しければ、烏、この義を、実げにとや心得て、「さらば、声を出さん」とて、口を開はだけける隙ひまに、終つひに肉を落としぬ。狐、これを取て逃げ去りぬ。その如く、人いかに賞むるといふともいさゝか誠と思ふべからず。もし、この事を少しも信ぜば、慢気出来しゅつらいせん事、疑ひなし。人の賞めん時は、謹んで猶謙へりくだるべし。
ひとこと、名訳ですね。



