或人のすゝめで、『国宝』を観た。わたしの行きつけの映画館は、新京極にある松竹系のMOVIX京都で、歩いて10分とかゝらない。券を買はうとしたら、席を選べとコンピュータ画面の機械がいふのはいゝが、おどろくべきことに、残席はひとつしかないので、画面上にひとつ残されたそれを押すしかないのであつた。大人気である。
映画は、まあ、最後までたいくつせずに観れたから、まあ、よいのではないか。主人公の若い男子ふたりはとびきりの美男子であるし、女性客は大満足だつたであらう。しかし、よく考へると、さうさう、手放しで絶賛するわけには参らないのであつた。ネット上の評は底の浅いものばかりで、朝日新聞あたりから買収されたかとさへ疑はれる。べつだんケチをつけたいわけではない。しかし、どう考へても「をかしいやろ!」といふ展開ばかりがえんえんとつゞくので、それが指摘されないのは、どう考へても不合理である。
映画は、雪の長崎ではじまる。長崎はめつたに雪の降る土地がらではないと聞いてゐる。最初からチトをかしいではないか。場所は一流の老舗料亭である。やくざの親分が新年の祝ひなんだらうか、しらないが、宴会を開いてゐる。それを演じてゐるのが永瀬正敏である。これも老けたが年齢に相応しい貫禄は備はらずにゐるから、所詮それまでの男だつたやうである。この奥さん役の女優には色気もあり可愛らしさもありながら、貫禄があつた。元宮澤首相のお孫さんなんださうだ。血筋といふものはあるとおしへる、いゝ例である。
そこへ、渡辺謙演じる上方の歌舞伎役者が登場。親分に挨拶してゐると、親分の息子という少年が歌舞伎の一幕を演じる。それをみて、渡辺謙がしきりに感心するのが、妙である。ありえるわけがないからである。どうして、そんなことがありえよう? 渡辺謙が毎日ちいさな息子を稽古でしこんでさへ、あのていたらくなのに、長崎にゐるこの少年が歌舞伎の稽古を積む場所がどこにもないのに、どうして渡辺がしきりに感に堪へたやうな目でみるしぐさのひとつも成し遂げ得よう? どう考へてもありえない。
さうして、もつと考へられないのは、やくざの息子のこの少年がどうして歌舞伎役者なぞに興味をもつたのか、その説明がないことである。現実的にありえたとすれば、漫才芸人かそこらが関の山であらう。戦後、歌舞伎が若い世代から絶大的な支持を蒐あつめたといふやうなことは、映画の世界を除いて(例、市川雷蔵)、たゞのこれつぽつちもないからである。明治、大正、昭和戦前においてさへ、永井荷風あたりなんぞが少し歌舞伎界とかゝはりをもつたことを除けば、まともな知識人が歌舞伎ごときに「傾かぶいた」とは聞いた試ためしがない。さういふ世の一貫した風潮にあつて、やくざの息子が歌舞伎役者になるだって? そんなことは絶対にありえないと断言していゝ。この「絶対にありえないと断言していゝ」展開がこのあとも延々とつゞいてストーリーが展開していくのだから、ほんたうに妙な映画といふ他はない。
…と思つてゐたら、油断はしちやいけないねえ、他の組のやくざがこの料亭に日本刀やら拳銃やらをもつて乗込んで来て、雪の庭に永瀬をバンバンバンと射撃してうち殺し、血の海にしてしまふ。あゝ、「長崎の雪」(雨ではなく)はこのためにあつたのだなあと、演出上の「あこぎさ」を感じさせられる(これ位はまあいゝが)。しかし許せないのは(ありえないのは)、所詮やくざは経済的政治的寄生虫であつて、この老舗料亭の社会的地位の高さを考へれば、こゝを利用する、地元政治家、官僚、財界人、文化人にも配慮せざるをえないから、こゝを舞台に襲撃をかけるといふことは絶対にできないといふことなのである。第一、料亭だつて、さすがに相手がやくざだからといつて、びゞることなく損害賠償訴訟を起こすだらうから、それにかゝる厖大な費用を考へれば、そんな暴挙を起こせるわけもないのである。こゝに至つて、このシーンの演出がいかに「あこぎ」で、かつ社会的「IQの低さ」の上に成り立つてゐるかゞがようく判明するのである。(つゞく)





