「人は多くのことを体験するとはいへ、(中畧) こと魂たましひに関するかぎり、何が琴線きんせんに触れるか、前もつて予感できはしないのだ」
(ホフマンスタアル「帰国者の手紙(第一の手紙)」檜山哲彦訳『チャンドス卿の手紙』岩波文庫、182頁)
退院をして、自殺念慮から解放された私は、いつからか傷いたみに傷み、傍目はためにも貧相すぎる姿になりはてた手提てさげかばんを新調すべく、祇園北側、新門前通にある、染司よしおかへ、八月の過日、やうやく出かけて行きました。
動ややもすればほんたうに死んでゐたところを、寸すんでのところで拾はせて貰つた命、この世にいはば生き返つてきた身なのですから、縁起のためにこれはぜひとも新調をすべきでせう。よしおかの鞄かばんは、もうかれこれ何代も買替へ使ひ続けて十年以上になります。わたくしは現在世の人むれを覆おほひ尽くしてゐる、かのリュックサックを肩に背負つたり、将又はたまた胸に抱いたりするやうな真似は死んでもしたくありません。
私には、いいもの、気に入つたものなら、同じ物を、いつまでも買ひつづける強い傾向があります。荷風散人もさうだつたとか。飽きるものが、イヤ。飽きないものを、よい、としてゐる。費つひえの多寡たかには頭が回らないのです。お金のたまらない道理です。
鬱状態にある時、人は必要があつても外出が億劫おつくうになります。買物は万事他人頼み。しかし元気になると現金なものです、じぶんで出かけるのが何よりの楽しみとなるのです。しかしね、体重が10キロちかくも落ちますと、筋力がないものですから、歩くのもひと苦労といふわけで、おぢいさん並のよろよろ歩き。四条通くらゐ歩けて当然が歩けずに途中バスの人となりました。
ICOCAといふ電子カードの用途を最近やうやく覚えましたのでね、向ふ所、敵なし(なんの「敵」?)といふわけですな。うふふ。
空すいたバスに運よく当り、おぢいさんよろしく与太与太よたよたとバス前方の椅子に腰かけますと、髪を上げた、お年のころは、三十才は超えないくらゐのわかい女性がさらにその前の席に坐つてをりました。私はこどものころから男に興味なく、女性ばかりながめて生きて来ました。
漱石『夢十夜』に出てくる庄太郎(第十夜)のやうです。庄太郎と同じく私も夏は頭にパナマ帽を載せてゐます。
女性は「花 la fleur」だとおもつてゐるのです。女性は、とにかく、美しいのです。もちろん、すべての女性が、ではありません。しかし、当然のことながら、この種族は現実には獰猛どうもうかつ奸智かんちに長たけて意地悪いぢわる極まる連中が尠すくなくなく、そのことは三歳のころから経験的に熟知させられてきました。
いま、わたくしはこの女性の後うしろに坐つてゐるものですから、どんな美人か拝顔の義務から解放されてゐることを密ひそかによろこんでをりました。実際に顔をみてしまふといけません。私の精神的自由が束縛されてしまひますから。見て居ない限り、安全なのです。空想を心中しんちゅうにたくましくすることができるからです。往昔そのむかし、日本人の男たちが著物きもの女性の襟足えりあしに美をみいだしたことは道理です。現実から解放された純粋なる「女性の視覚美」と「芳醇なる花の香」はそこから立ち上のぼつてくるのですから。
私は退院のよろこびを、平和な四条通の雑沓ざつたふをみることで味はふことができるものと、単純に考へてゐたのですが、そこへにはかに暗雲が翳かげり始めましたので弱りました。前の席の女性の項うなじをながめてゐるうち、わたくしの脳裡には、昔私と深い仲をなしたひとりの美しい女性との思ひ出がいくつもいくつも、四条通、八坂神社、祇園とバスのすぎるにつれ、自然湧き出てきたからです。大の男の目からなみだがこぼれ、それがすこしもとめられないのに、大変往生を致しました。
これは鬱病の後遺症かといふと、今は自殺念慮から完全に解放されて元気そのものですから、これは私の今までの人生の後遺症でせう。つぎに順を追つて話さうと思ひます。
その女性は癇癖かんぺきの極きはめて強い女性でしたから、あんまり近くに寄つて、おもひでを見つめると、同時に不快なことも自然思ひ出されてきて腹立ちもし興ざめもしてしまひますが、遠目とほめにおもひだす限り、その思ひ出は永遠とはにうつくしいとさへ思はれるのでした。よのなかに完璧な人間などゐないのですから、その我儘わがままな小さくない咎とがめも流してしまふがいいでせう。著物きもの雑誌などは格別、現実にみた女性で、彼女ほどうつくしく著物を着て、わたくしにゆめを見させてくれた人はないのですから。現にわたくしはすべてをゆるしました。その愛ゆゑに。しかしふたりの関係の賭物がわが息子となれば、譲る道はありません。その義務ゆゑに。わたくしの人生は、「義務」が至上命令の人生でしたから。その女性には、結局、かはいさうな事をしてしまひました。
あんまり派手でもいけませんが、あまりにも地味過ぎる御著物を着て街あるきしてゐらつしやる女性を見ることくらゐ、がつかりさせられるものはありません。
あんなにも美しいおもひでであつたのに、わたくしはすつかり全部きれいにわすれてをつたのです。といふのは、この四年ものあひだ、私は息子の教育にかかりきりであつたからです。「先生は、ほんたうに息子ちやんラブだからね」と事務の荒井さんにはしよつちゆう笑はれてをりました。一年間の中学受験。三年間の原書を使つた英語の読み方。時どき古文。親として、学校に頼らない、してやれるだけの、贅沢きはまりない教養教育をマンツーマンでしてきました。「家庭教師」式の教養教育には、効果があると思ひます。息子は高校1年生の始め、学年全体で10位内に入りましたから。トップ5%内です。
旧ふるき欧米や中華において、エリートはみな家庭教育である。冒頭の引用にあげたホフマンスタアルも、父、祖母、家庭教師による古典教育を、10歳でギムナジウムに入学するより前から、家庭で受けてゐるとの由である(富士川英郎「ホーフマンスタール小伝」『H.v.ホーフマンスタール詩集・拾遺詩集』平凡社ライブラリー、所収)。
教へ甲斐のある子供でした。わたくしがおしへた子供のなかで唯一第一志望校にぶじ合格した生徒です。さういふ意味で親孝行でさへあります。ともかく、私のみたなかでは一等頭のいい生徒がわが息子でした。しかし、こどもの成長をとめることはできません。
わたくしが自殺を思ひとどまつた理由に、自殺の実行はけつして容易ではないことのほか、私が自殺など仕出かしてしまへば、こども時代に父たるわたくしと勉強を共にした息子に取返しのつかない心の傷を生涯残してしまうだらうことは明白だからです。宇治おうばく病院への入院時、わたくしは任意入院でしたが、これを号泣して訴へて自殺をしない誓約をしました。入院中は看護婦さんから何度か、自殺念慮を尋ねられましたが、たとへあつたところで、自殺を決行するくらゐなら入院なんかしやしない、たうたうあきらめたから入院したんぢやないかと減らず口を叩いてをりました。
昨年の秋に、嵐電の線路わきに茂つて秋風に頭を振つてゐるイノコログサをみて、私はなぜかなみだをとめることができませんでした。これが明らかな鬱病の最初の兆候だつたと思ひます。しかし、わたくしは、自分のこども時代の思ひ出を思ひ出したがゆゑにと解釈して流してしまひました。ところが、ほんたうのところは、赤ちやんの頃より始まつて、幼稚園、小学生、中学生と大きくなつてきた息子から、子供時代の面影がどんどん喪はれていくことを悲しんでゐたのだと今は思ひます。
私が秋田県で働いていた能代厚生医療センター(旧、山本組合総合病院)の太田原康成院長からは、こどもがこどものままでゐるのは「期限付」ですよと賀状をいただき、頭ではむろんさうです、わかつてますよと理解してゐたのですがね…。
私の鬱病は、徐々にすすんで、おそらくですが、わたくしのこころのなかでは息子は死んでしまひ、この世の中からゐなくなつてしまつたと解釈したのでせうね。「渦中かちゅうの人」になると、このへんのところが自分でわからなくなつてしまふのが、鬱病のこはい所です。私はいつからか死にたいと毎日思ひ詰めるやうになつてゐました。子供が死んだ以上生きてゐてどうする? 親は自殺して当然といふ訳なのでせうか? しかし、なぜさう思ふのか、なぜ泣くのか、わからないのです。現にむすこは生きてゐるのにも不拘かかはらずですよ。客観的な視野がうしなわれてしまふのです。私が死なないやうにと、週末は私とお茶をして私を監視してくれてゐた前妻は、終始首をかしげてゐましたが、その態度に「どうしてわかつてくれないか?」と私も負けずに首を振つてゐました。
いまも母親や父親と手をつなぐ幼稚園児や小学生の男の子を街中で見かけると、なみだがとまらないことがあります。(その反面、女の児は憎らしいと思ひこそすれ、今まで誰ひとりとして、ちつとでも可愛いと思つたことがない) しかしもはや自殺念慮から解放されてゐるのは医学のおかげですね。
退院をして、すぐに「天啓」はやつて来ました。前妻と離婚したことを息子に伝えること。わたくしは、息子の誕生日など、飲食の席では、息子のためにかならず前妻も招よんで「家族」を維持するやうにしてきたので、すなほな息子は中学生になつても親は単に別居してゐるだけで離婚してゐないと信じてゐるやうでしたが、高校生となつては、事実を伝へないことが息子に不実です。
むすこはこれから日日ひびわたくしとは別れていく若者です。そしてそれは「当然」のことなのですから、私は再婚しようと思ひました。退院してクリニックにたどり着いた時、一番最初に頭に浮かんだのは、じつは「なぜ、死なうと思つてゐたのだらう」といふ自殺念慮からの解放ではなく、「どうして、もうじぶんにカノジョができることはないとおもひこんでしまつてゐたのだろう?」といふことでした。「できるにきまつてるやん!」 このとき脳裡に大きな白浪が砂浜に打寄せる上空からの遠景がなぜか浮かびました。いつたい何の象徴なのでせう?
たぶん、その意味は、私が積極的に動かうが、消極的に静しづかにしてゐようが、今年及び来年あたりが私の人生には大きな節目で、何かあるといふことなのだらうと解釈しました。私はたしかに躁鬱病(MDI)で、良くも悪くも、あがり下がりの大きな人生を送つてきましたから、この波濤はたうをすなほに受入れようと。
「できない」と思ひ込んでしまつたのは、絶対的バリヤーで「息子を保護したい」といふ気持と裏腹にあつたものなのだらうと今は思ひます。しかし、いつまで親の保護が必要かといふと、これから日日わたくしの保護から脱していつて当然の若者なのですから、息子は息子の人生をあゆみ、私は私の人生を歩んでいけばいいだけの話で、やうやく「じぶんのために生きる」といふよろこびが私のこころにもどつて来てくれたのですな。私は生き返ったのです(My Life was revived happily.)。さうして、前妻も前妻の人生を歩むのであつて、長く近き友人であつた前妻とは遠き友人として、たうたう「別れる」と。
今まで、息子のためには、お互にご協力、ほんたうにありがたう!
しかし、親としての肩の荷をおろすのに、鬱病にまでなつてしまつたといふのは、よほど荷が重たかつたといふことなのか。或は「やり過ぎ」だつたといふことなのか、そのことは別の機会に考へてみます。
現在、高校生となつた息子は、私にとつては「新しい関係」を築いていくべき若き友人となり、かうして、わたくしからは「愛すべき対象」が喪はれてしまつた(こども時代の息子は永遠に世を去つた)とき、すつかり忘れてゐた(勝手なものです)かの女性の面影おもかげが京都の繁華な街並のなかからドン! と急浮上してきたわけです。いま、私はじぶんでじぶんのこころを巧みにコントロオルをすることができません。
しかし、かへらぬ昔日せきじつを思ひ出したとて、それは最早もはやとりもどせないと哀しみが一瞬ふかまりかけましたが、少し思ひ返すと、いまわたくしはかうして孤独で不幸だけれども、こんな甘美な思出ひとつない人もあらうから、かなしみをかかへて生きるのも、幸福 Happiness のひとつのあり方なのだと、荷風散人(1879-1959)が境地をこの齢でやうやく僅わづかとはいへ理解できたのをひとり泪なみだを拭のごひつつ静しづかによろこんだのでした。
散人にしては、少々甘つたる過ぎる詩ですが、以下に引用します。荷風はがんらいが抒情詩人なので、赦ゆるしませう。日本の時局が悪くなり、満月照らす秋の夜に感傷した時の作。
何とて鳴くや
庭のこうろぎ夜もすがら
雨ふりそへばなほ更に
あかつきかけて鳴きしきる。
(畧)
思出しぬ。 わかき時、
われに寄り添ひ
わが恋人はただ泣きぬ。
慰め問へばなほさらに
むせびむせびて唯泣きぬ。
「何とて鳴くや
庭のこうろぎ。
何とて泣くや
わが恋びと。」
たちまちにして秋は尽きけり。
冬は行きけり。月日は去りぬ。
かくの如くにして青春は去りぬ。
とこしなへに去りぬ。
「何とて鳴くや
庭のこうろぎ。
何とて泣くや
わが恋びと。」
われは今ただひとり泣く。
こうろぎは死し
木がらしは絶ゑ
ともし火は消えたり。
冬の夜すがら
われは唯泣く一人泣く。
(磯田光一編、永井荷風『摘録 断腸亭日乗 下巻』岩波文庫、昭和15年10月15日)
近い内、男女の「愛」といふものについて、考察してみたいと思ひます。日本では、老いも若きも「愛」についてまじめに語らうとしない風潮があるやうにおもひます。しかし、これ以上は無理! と思はれるほど、幼稚さの充満する日本で、いい歳をした大人が、「愛」とは何か、語れないというのは恥づかしいことではないかと、今頃こぼしてみても仕方がないのかも知れませんが…。
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