けふは西欧の詩をひとつ読んでみませう。
ドイツの詩といふのですが、ひとくちに「独逸ドイツ」と言ひましても、ずゐぶん昔の話にはなりますが、とかく軍人の威張つてゐた「伯林(ベルリン)」と学者や音楽家、俳優が人びとから無限の崇拝を受けてゐた「維納(ウィーン)」とでは、同じやうで、全然違ひます。と言つて、日本から碌ろくに外に出たこともない私がいふのでは説得力がまるでありませんから、抜群の援軍をたのみます。
それがウィーンの人、シュテファン・ツヴァイク Stefan Zweig(1881-1942) が著した『昨日の世界』で、みすず書房から翻訳が出ていますが(1961年)、そこに、いかに「神童」ホフマンスタアルの書いた詩が、当時、文学ずきであつた若者たちをシビレさせたか、魅力ある筆致で記録に残してゐます。ツヴァイクのこの本が出版されて(1944年)何十年も経つたといふのに、ドイツ語でなく日本語で読んでも、良き訳者(原田義人氏ほか)を得て、当時のウィーンといふ町がどういふ処ところだつたか、ホフマンスタアルの人気ぶりがどうだつたか、たいそうよくわかるのです。
当時の明治日本でも、ホフマンスタアルのいくつかの作品は森鷗外(1862-1922)や木下杢太郎(1885-1945)によつて翻訳されてゐるさうです。鷗外と杢太郎は、その「文学」が本物で、芯ハートに「詩」のある人。ならばホフマンスタアルの「文学」も現在さう著名ではないが、かならずや具眼の士のこころを慰むるもののはず。
インターネットで検索して得た文献に畠中美菜子「明治末期のホフマンスタール受容 木下杢太郎の周辺」があり、杢太郎は「小鷗外」と綽名されてゐたさうだ。可笑しい。しかし、同じ医者で文学者、しかも有能なのだから、当然か。Hofmannstahlの発音・表記は「ホフマンスタアル(ホフマンスタール)」が正しい宗むね、ホフマンスタアルの長女に実際会つて確かめたといふから偉い。「ホーフマンスタール」の表記はウィーン的には間違ひといふことです。
これはぜひともホフマンスタアルの作品を一篇でもよいから読んでみたいものだと思つて、本屋を捜さぐると、ありましたよ。岩波文庫で『ホフマンスタール詩集』(2009年)。
しかしねえ…、ハッキリ言ひます。いけません。その訳文が日本語の体をなしてをりません。かういふことが日本ではあり過ぎるのです。罪びとの名を挙げよ。それこそは岩波文庫と東大教授なり。これは永遠の真理ですね。いいですか、「権威」はつねに疑はれるべきです。
飜訳といふのは、いいか悪いか、それは程度もんだいで、誤訳は避けられないものとして寛容でなければいけないもののやうですが(長島要一『森鷗外 文化の翻訳者』岩波新書2005年は名著です)、あんまりひどいと、やつぱり許す気にはなれません。「政治」は寛容を旨とすべきであつても、「文藝」にへたな寛容はかんがへものでせう。
小生は医者と言ひ条、現代の医者は独逸語がわかりませぬから、詩の一篇「Erlebnis」の英語訳(An Experience trans. by J. D. McClatchy)から日本語に移してみます。全体に幻想的で、格調がハイレベルです。
父が銀行家で、一人つ子の秀才。働くといふやうな下等な経験のない、詩作、劇作といふそこいらの人間ごときではできるはずもない高度の藝術活動しかしたことのない(例、リヒャルト・シュトラウスとオペラ『薔薇の騎士』を合作)、ウィーンのユダヤ人貴族の書く文章ですから、庶民的といふわけには到底参らないのですな。
しかし気取つてゐるといふわけもなく、ぜいたくで、余韻もふかいものです。だから文語を使つて訳してみました。
岩波文庫の訳文がいかにでたらめかは、あとでコテンパンに示してみます。
旅だち(1892年)
銀香の渓たにに薫る時分は黄昏たそがれなるか
雲透かして月影の映り来れるものなれば
されどいまだ夜にはあらず
夜せまる渓たにに満つる銀香は考への象かたちを成さぬ我わが脳髄にさまよひ入るなり
波ゆらめく透明の海に我はしづかに沈みゆく
人生に別れを告げんと
おもへば生の世界にはいかにすばらしき花の咲きみだれゐしことや
花園にいり混じりたる色彩の暗く燃えたる様さまよ
かの庭の繁みにはトパアズのごとき黄金の炎の
燃えさかり、うねり、かがやき、溶けゆくもの也なり
万象。そははかりしれぬ深みもちたる嘆きの調べより成るやうに見ゆ
これについて余の知るところ浅からず
頭脳にて理解することは難かたし。されど実感にては知らぬところなきもの也なり
その名を言はむか、これ、死なり。かなしみの旋律にすがた変へたる。激しき恋情れんじょう。甘く、暗く、燃やしたる。そこひ知れぬ憂うれひに相似あいにたらむや
然されど奇なるは、名状つけがたき、生をもとむる心のなみだを流すことなり
わたくしの魂のうちにて、しづかに湧きいづるなみだ
ガレオン船上の人となりし人の流すなみだに相似あいにたり
大いなる船を黄金の船に変へたる夕陽せきように、紺碧こんぺきの海をわたり、過ぎし町こそ、驚くなかれ、わが生れし町
今いちどよく目を凝こらさん、わが町の街路に
今いちどよく耳を傾けん、わがまちの噴水の音ねに
今いちどライラックの香につつまれて深く息吸ひ込まん
見よ、砂浜に立つ幼子おさなごこそは、往昔おうせきの我なり。目ひらき心まどひ今にも泣かんとす
開かれし窓からわが部屋の灯見んとす
されどこのとき大いなる船は海原に出航せむとす
紺碧の海を渡ること静なり
船の大いなること尋常にあらず
At dusk a silvery fragrance filled the valley,
As when the moon is viewed through a veil of cloud.
But it was not yet night. In the darkening valley
That fragrance drifted through my shadowy thoughts
And silently I sank into the wavering,
Diaphanous sea, and left my life behind.
What wondrous flowers had bloomed there,
Cups of colors darkly glowing! And a thicket
Amidst which a flame like topaz rushed,
Now surging, now gleaming in its molten course.
All of it seemed filled with the deep swell
Of a mournful music. This much I knew,
Though I cannot understand it – I knew
That this was Death, transmuted into music,
Violently yearning, sweet, dark, burning,
Akin to deepest sadness.
Yet how strange!
A nameless longing after life now wept
Inside my soul without a sound, wept
As one might weep who on a galleon
With a giant gilded sails of an evening slides
Over the indigo waters past a town,
His native town. And there he spies again
The streets, hears the fountains plash, breathes
In the scent of lilacs, and sees himself again,
A child standing on the shore, wide-eyed,
Anxious and close to tears, and looks then through
An open window to see a light on in his room-
But the huge ship is bearing out to sea
Without a sound over the indigo waters
With its giant gilded unearthly sails.
講釈
ドイツ語の原詩は叙述がもつと詳しいです。ドイツ語の読める人は、株丹洋一といふ先生の書いた解説論文をインターネットで検索すると、よいとおもひます。この英訳詩を書いたJ. D. マックラッチー先生は、イェール大学の先生とのことです。しかし、岩波文庫の日本語訳よりは、英訳詩の方がよほど意味が取れます。
冒頭の a silvery fragranceですが、これ、なかなかね、「詩味」あつて、いい言葉だと思ひます。「銀色」といふ視覚と(「銀器」のもつ「重み」といふ感覚もあらうか)、「香水」といふ嗅覚、異種の感覚が合体する「不思議さ」があります。
ドイツ語から訳してゐる人たちは、岩波文庫訳もふくめて「銀鼠ぎんねず」といふ訳語にみなさん、こだはつてゐるのですが、服飾の世界で鼠といへば銀、銀といへば鼠なので、むだな冗語としかいひやうがないと思ふんですがね。さうしてなぜか、fragranceに当るドイツ語Duftを意図的にか無視している。しかし諸感覚との関係の間に「われ」といふものも相対的に成り立つてゐるといふ当時最新鋭の「科学」理論(エルンスト・マッハが提唱した)はウィーンで大流行中で、その影響は無視できないといふ藤川芳朗先生の解説論文をインターネットで検索して読んでみて下さい。こちらのほうが遥かに説得的だと思ひます。1960年代のドイツ人学者もその線で(共感覚理論)この詩を解説してゐます。第一、ホフマンスタアルその人じしんが、「詩についての対話」といふ心躍おどらせる名編に「自我は外から吹き寄せてくる」と印象ぶかく語つてゐるといふのに(檜山哲彦訳『チャンドス卿の手紙』岩波文庫、130頁)。
さういふ「不思議きぶん」の裡うちに、銀香は、詩人を酔わせたやうなんですな。my shadowy thoughtsつて何や? といふことなんですが、「考へる」という脳機能に「影が差す」といふことなんでせうから、どうも「夢世界」に入つちやつたといふことなのでせう。その象徴が「海」。で、チョットこれが恐ろしい想像の世界で、詩人は「死 Death」の世界に誘はれてゐるんですな。それが left my life behind. 花さく陸地に背を向けてしまつたといふことです。
岩波文庫訳はほんとうにひどくつて、「ほのかなわたしの思い」だつて! 違ふよね。理性の歯止めが効かなくなつたといふことだよ。「酔つた」やうな感じになつた、自分と外界の区別がつかなくなつたといふことですよ。もつとひどいのが、波間にぶくぶく身を沈めてゐるのに、「人生をはなれた」だって! こんな曖昧語で意味がとれますか? 後述する富士川英郎先生は「生をすてた」とハッキリ明瞭に訳して、これが正解でせう。
続きは、英訳詩にも明確には書かれてはゐないのですが、「花 wondrous flowers」は生 Life の象徴だといふことだと思ふのです。株丹洋一先生の解説文などを読むと、象徴主義の詩だのなんだの、わかつたやうな、わからぬやうなことがいつぱい書かれてあるのですが、18歳の若者が書いた詩ですから、「そんなの言はずともわかつて当然さ」といふのがカッコよい世界だつたといふことなんでせう(わからんヤツはまぬけ)。しかし、生あるものはかならず死す。だから、生ある世界には悲嘆が満ちてゐる(mournful)。そして19世紀のこの当時、「死」は常にみぢかにあつた。だから肌身にようく知つてゐる(knew)。たとへ、それが頭で理解できなくても。
岩波文庫訳は、悲嘆と訳すべきところ、「憂鬱」としてゐる! 続く詩の展開上もチョット選べない日本語だよね~。読者の頭が混乱させられるよね~。岩波文庫訳がサラッと「音楽」と訳してゐるところ、ここも尋常の日本語感覚の持主なら到底こんな単語は容易に持ち出せないところで、怖い。また、株丹洋一先生の解説も、「花」が海中に咲いてゐて当然かのごとき文章で、驚嘆させられますう。しかし、「常識的」に考へて、花は陸地に咲いてをり、花は最後は凋れてしまうもの。さういふ悲しくも甘美な死の音楽を聴いたわたくしは、海中に身を沈めるといふ流れなのだとおもふのですがねえ。この点は後述します。一読サッとわかりやすいわけではないですが、それでも、株丹先生の解説はとてもわかりやすい良いものだ思ひ、推奨します。
私が「調べ」とか「旋律」と訳したmusicには、すこし歴史的解説が必要で、私も大変勉強になりましたが、興味ある方は、オスカア・ワイルドの『幸福な王子』に関する輪湖美帆先生の研究論文をインターネットで検索してみてください。すると、19世紀末には藝術で最も美しい形態、それは「音楽」だといふ通念があつたさうです。だから、詩のここらへんの部分は、恋愛の甘美さとイメージ的に重ねるかたちで「死は甘美だ。美しい」と言つてゐるといふことになります。
岩波文庫訳のここらへんの日本語は、何度読んでも、サッパリよくわかりません!
しかし、ムードに乗って、ほんとに死んじゃつたらね、不道徳です。だから、再び生きたい、生を追い求めたい(longing after life)といふ気持が湧いて来る。そこの転回を示すのが、But how strange! だけどね、死にたい、イヤ、やつぱり生きたいといふのでは、単純すぎて、ウィーンのギムナジウムで知的にもまれている秀才連中は満足できない。だから「weep」なんて言ひ回しを使って(死になみだをながす)、表現に陰翳をもたせてゐる。
岩波文庫のここらへんの部分は、詩の意味じたいが取れません!
a galleon(ガレオン船)といふのがだしぬけに出てきます。これもさつきの、「海」や「花」と一緒で、説明をポイした何かの象徴なんでせうね。「海」に関するので「死神」と取りますか? 「故郷の町(his native town)」といふのは「生きたい(longing after life)」を具体的に言ひ換へたものでせう。とくにthe scent of lilacs なんていふのは、「花」「濃厚な香」といふところから、まさしく「生」「美」「愛」の象徴といふのは、誰でもわかる(といふのは言ひ過ぎか。しかしたとへば音楽家のラフマニノフはリラの花を愛したことを知つてをれば理解は電撃のごとく成る)。「幼少期の思ひ出」もまた然り(この点、後述)。しかし、巨大な死のちから(異形のガレオン船)は無情にもわれわれをこの世から奪ふ、といふ厭世観がこの詩のメッセージなんでせうかね。なんにせよ、象徴主義といふのは難解だといふことは、昔から、鷗外漁史さへこぼしてゐた話だ(「余程不思議なものだ。剣をぬいてじつと見て居ると、それが忽ち女になるといふやなのなどもある」宗像和重編『鷗外追想』岩波文庫、205頁)
岩波文庫訳は、タイトルを「体験」と直訳してゐるが、直訳してど~する! 直訳は誤訳なり。ガレオン船の帆の色が「黄色」といふことにこだはつてゐるのだが、黄昏の航海なので、夕陽に「黄金(おうごん)」に染まつてゐる、鍍金されてゐるといふことくらゐ、わからんか? 全体に、どれだけのドイツ語理解力で訳されてゐるかが、まつたく未保証の訳なんだよね。ほんたう、どないかしてほしいわ。
ほんたう、どないかしてほしいわ、といふ嘆きを、どうにかしてみようといふときに役立つのは、「詩文」を心底愛してゐた人の助けの外に、ありえない。それが富士川英郎(1909-2003)先生の『H.v.ホーフマンススタール 詩集・拾遺詩集』(平凡社ライブラリー)で、富士川先生が、ホフマンスタアルの初期韻文劇『チチアンの死』と『痴人の死』の翻訳を収載してくださつてゐて、よかつた。
上記劇の双方に「死」の単語があることからも示唆されるやうに、また、私が「旅だち」と意訳した本詩の内容からも容易にうかがはれるやうに、木下杢太郎の指摘するごとく、ホフマンスタアルの詩文には、この世を去る「死」にあこがれる「耽美主義」ないし「厭世思想」がある(富士川英郎『読書清遊』講談社文藝文庫113頁、「ホーフマンスタールと木下杢太郎」)。そして、これは19世紀末の流行であつた。
このブログで以前取上げたオスカア・ワイルドの文学世界もこの文藝思潮に当然触れてゐて、ワイルドはその無精ぶしょうから、幾つかの作品において題材や舞台設定を共通にしてゐたごとく、さうした無精はホフマンスタアルにおいても同様であつて(あらうから)、詩の主人公が海に入水じゅすいする場面は『チチアンの死』にも類似なので、ここをみれば、詩の正しい場面状況が確定する。(嬉)
チチアンTizianは、16世紀に99歳で死んだヴェニスの画家の名前といふことだ。いま臨終の床にある。娘のラヴィニアの台詞を見てみませう。
父は落着いて、自分の墓のことをいろいろ語つてゐました。
青味がかつてゆれてゐる、緑の濃い杜もりのなかの、
白い岸辺に葬つて貰ひたいと言ふのです。
そこには無念無想で成育しては枯れていく
たくさんな植物が繁みあひ、からみあつてゐて、
あらゆる事物ものが自分自身を忘れてゐる。
そして夢見ながら動いてゐる海のほとりで、
無言の生命の脈搏が静かにうつてゐる所にと言ふのです。
これで殆ほとんど本詩の主人公が海に沈んで死んでゆく状況は確定されたも同然であらう。花は海のちかくの陸地に咲きみだれてゐるのである。なほトパアズなど、美しい鉱石を比喩に持ち出して来てゐたのは、ワイルドなどにもある同時代の趣味と容易に知られるが、派手ずきのワイルドなどより真正の貴族ホフマンスタアルは遥はるかに控へ目である。
かうして、「花」は「生」の象徴であると同時に、生には「死」が伴う以上、この世は「かなしみ」に満ち(ここまでは普通にわかる)、このかなしみは「音楽」に象徴される(ということを理解するには19世紀末的飛躍を要する)。これについては『痴人の死』(これは明治の昔、鷗外漁史が飜訳して、広く読まれたやうである)に、本詩と関連する限りにおいて、主人公クラウディオの台詞せりふを拾ひろつて、理解(?)につとめてみよう。
音楽?
なんだか不思議に魂に語りかけてくる音楽だ!
(中略)
この調べは、緩ゆるい、敬虔な思ひを湧きあがらせて、
俺を幼な時の海のなかへ投げいれてくれるのだ。
少年の頃、俺はちやうどこんなふうに春の光のなかに立つて、
自分が万有のなかへ舞ひ上つていくかと思つたことがある。
(中略)
や、や、音楽がやんだぞ。俺をこんなにも深く感動させ、
人間的であると同時に神のやうなものを感じさせてくれた音楽が。
(中略)
(戸口に死が、片手にヴァイオリンの弓をもち、腰帯にヴァイオリンをぶらさげて現れる。死は、驚いてしりごみするクラウディオを、静かに、じつと見つめてゐる)
なんと無意味な、言ひやうもない恐怖が襲ひかかつてくることだらう!
お前のヴァイオリンの音色はあんなにも好ましかつたのに、
お前の顔を見ると、こんなにも慄へてしまうふのは、どうしたことか?
そして喉がしめつけられ、髪の毛が逆立つてしまふのは?
行け! お前は死だな。ここに何の用がある?
支ささへが、生命いのちの空気が消え去つてしまつた!
ここでは「音楽」は「生」の「よろこび」の象徴でもあることがわかる。本詩に関するかぎり、海浜にあそんだ子供のころの記憶は、「生」の美しいおもひでと十分理解してよいだらうとわかる。それを奪つていつた異形いぎょうの巨大なガレオン船は、ここにも出てくる「死神」の象徴であろうことも容易に推察される。
…「音楽」が「死」の象徴といふことはつひに今ひとつよくわからぬままであつたが、そのうちわかるであらうので、気長に次の機会としませう。
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