ホフマンスタアルの詩からもうひとつ選んで読んでみます。私は英語からの重訳ですが、じつさいのところ、昔から重訳といふのは、実は多かつたのです。
いまは原語尊重とか称して、重訳は大罪とか思はれてゐるむきが多いのですが、その昔、芥川龍之介がアナトオル・フランスの『バルタザアル』(絢爛たる作品で、良いです。全集第一巻所収)を訳したのは得意の英語からの重訳で、ほんたうの原語たるフランス語からの飜訳ではなかつたのです。そのときフランス語から「直接」訳した人が別にあつたので、出来の巧拙に、気の弱い芥川は気を揉もんだのですが、果たして、そんな人よりも遥はるかにたくみに日本語にうつし得たのは芥川であつたのはゆうめいな話です。ボードレールも芥川は英語で読んでその精神を血肉化してゐるはずです。
「直訳は誤訳。意訳は要約」といふ戒めの言葉があると最近ききました(長島要一『森鷗外 文化の翻訳者』岩波新書、2005年、19頁)。文章単語ではなく、「文化」なのですね、「飜訳」をすべき真の対象は。だから作者、作品のハートを正確にとらえ得たかぎり、訳文はまづくならないと思ひます。
今回は「原詩」(?)の英訳詩を先に載せて、あとに私訳の日本語を綴つてみます。
Ballad of the Outer Life 1896 trans. by J. D. McClatchy
And children with their deep-fixed gaze,
Who know nothing yet, grow up and die,
And all men go their separate ways.
And bitter fruit will ripen by and by
And at night dead birds fall to the ground
And for a few days rot where they lie.
And the wind blows, and we hear the sound
Of words and over and over repeat their sense
And feel a joy both weary and profound.
And roads run through the grass, a residence
Here or there with torches, ponds, trees,
And some are withered, or threaten violence.
Why are these built, each one ill at ease
With the rest, yet in the end all the same?
Why will neither tears nor laughter please?
What good is all of this to us, this game?
However great we grow, we are lonely still
And wander the world without an aim.
To learn merely this, we leave our homes?
And he says everything who says just “evening,”
A word from which the richest sadness spills
Like heavy honey from the hollow combs.
人生の外面についての哀歌
深く、まっすぐに見つめる瞳をもつた子供たち
まだ世の中のことは何も知らないかれら
かれらもいづれ人となり、死んでしまふ
その人生は一人ひとり、曲道が異なるものの、最後はすべての人のたどる道
酸つぱい果実も、すこしづつ甘くなる
夜に死んだ鳥が地面に落ちる
数日も経てば、落ちた場所で死骸は腐つてしまふ
風が吹く
われわれの耳をかすめる風の音に含まれる神[叡智]の言葉
くりかえしくりかえしその意味を確かめる徒労の末に奥ぶかい歓喜を感ずるのだ
草原を走る数条の道
住居が一軒
あちら、こちらにたいまつが、池が、花木があり、花木の幾つかは枯木となつて人を脅かしてゐる
なにゆゑ、こんな不気味なものを備へてゐるのだ
住居のほかのぶぶんも、最後にはみんな同じことだ
なみだも、笑ひも人のこころを満足させないといふのはどういふわけだ
われわれに、これらのすべて、人生ゲームにいつたい何の意味があるといふのだ
われわれはいかに偉大な人物にならうとも、孤独なことはこれからもずつと変らない
目的なく世界をさまよふ私たち
単にこんなことをまなぶため、われらは故郷を後にしたのか?
「こんばんは」とだけしか言はぬ人がすべてを語る
ゆたかなかなしみが、そこからこぼれおちてくる、ひとつの単語
それは薄き蜂の巣よりしたたる濃厚な蜂蜜に似てゐる
講釈
inner lifeは「心の中のこと」。だから「outer life」は、人生の外側に関することと、ホフマンスタアルは、一往、かなしみを歌ふ対象を2分してゐる。
the sound of wind of wordsの意味はわかりにくいが、西欧世界のことなので、いづれ「神の言葉」なのだらうと、推測できるのがいいことである、と私は思つたのだが…。よくわからないです。
joyとwearyはその組合せの落着きが悪いが、庶民のくらしとはさういふものだらうと諦念した。ここもよくわからない。
wander the world without an aimは、ホフマンスタアルが関心を持つた不快なテーマ。ドイツ人は、世界中でビジネスを展開する一等国民になつたかも知れないが、「左手のすることを右手は知らない」統一性のない連中ばかりになつた、と「内的な威厳」を失つた人ばかりになつたドイツに嫌気をさしてゐる。ドイツ人から「人間の顔」がうしなはれた! となげくのが「帰国者の手紙(第二の手紙)」檜山哲彦訳『チャンドス卿の手紙』岩波文庫、所収。この「帰国者の手紙」は読んでたいへん面白い。
結びは、上記を受けると、人間の「会話」とよぶにふさわしい、会話らしい会話をできる人もゐなくなつてしまつたといふ、深いかなしみをうたつてゐるのであらう、と私にはおもはれた。ホフマンスタアルの文学は全体にペシミスティックな「かなしみ」の文学といへるであらうから。
例によって岩波文庫訳は当然よくわからないし、富士川英郎訳もよくわからない。上記のように『帰国者の手紙』と関連付けた訳のほうが良ささうなのだが、これと関連づけない場合は、「こんばんは」と単語だけしか言はない寡黙な人物は好人物といはんばかりに評価されてゐる。ようするに「ゆふぐれ(evening)」は良きものの象徴であるかのやうである。インターネットで拾つた巌和峯「詩的形象の彼方へ(その一)」はさういふ解釈。一見すなほと思はれる。しかし、ここは単に「こんばんは」といふ「あいさつ」だけのいみでしかないのでは? だから全体には単語でしか会話できない人が増えたといふ皮肉なのであらう(かなしみの「豊かさ」)とわたしは解したのであるが…。私の解釈でいくと「ゆふぐれevening」以上に「ふるさとをすてたleave our homes」といふ事実こそ(これは「人間性を捨てた」と同義)、はるかに本詩においては重たいのである。論理的にはどちらの解釈も成立つ、両義的な詩といへるが、「バラッド」がかなしみを歌ふものである以上、「ゆふぐれevening」の語に救ひを見出さうとする解釈はやはりまちがひではないか?
しかし、退院してからといふものの、なにゆゑに、かくも文藝エッセイを書くことに私は熱中してゐるのでせう。これについては、別に何度でも書きますが、私は今回の病気と入院で、心理的にはやはり自殺に成功したのです。しかし一旦死んだのち、なぜか私は再生してきた。だからこれからは、もう他人のためには生きない。自分のために生きる。そのために生れ変つてきたのだと思ひます。
これまでの生き方を変へないといけないなと今年になつて考へてゐました。安直に私は書物といふ「死んだ」友人とのつきあひを断絶すればよいと考へたのですが、これは大きな間違ひだつたやうです。私は文章を書くのにも、この五年ほどは徐々に徐々に消極的になつて来てゐましたが、これも義務心からしようとするので、さうなつてゐたのでせう。
私は文章を書くのが上手です。(断言) 文章の善し悪しがわかる人ならばかならずさう言つてくれるからです。勿論さうです。そのやうに高校生来、修行を重ねてきたからです。意識的な修行なしに文章は書けません。しかし、或時あるときから文章がうまく書けてそこに何の意味があつたのか、懐疑的になつて来てゐました。これも、じぶんのたのしみのために書く、といふことをなぜか忘れてしまつたからでせう。或は電子化が進むこの現代社会において「文人」として生きることへの困難が益益増してきてゐる現状への絶望があるかも知れません。
ただ、「生き直す」新しい方向について、上記のごとく正しい方針がみつかつたので、読書をしては、知識をまとめなほす、「書く」作業を、じぶんの愉しみのために今後継続して参りたいと思ひます。Hofmannstahlについてはこのあたりでいつぺん終りとして置きたいと思ひます。若き日に世紀末ウィーンについて読んだ本を再読していく時間を取りたいので。日本の文学については、なんといつても、森鷗外をきはめていきたいなとかんがへてゐます。
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