「勉強、好き?」とこどもに尋ねて、「…キライ」と言はせて喜ぶのが、日本のマスコミである。大衆のおほくは偏差値が低い。50以下。それへの迎合である。唾棄すべき料簡であらう。勉強ずきなこどもたちの将来の活躍にこそ、日本の未来があるといふのに。私の民主主義ぎらひは正論である。文句あるなら、だれか反論してくれ。
小学生のころ、私は、勉強など、特段好きでもなければ、きらひでもない、ごく尋常なこどもであつた。学校の勉強など、したことはない。しなくても、テストで七、八割はつねにとれてゐたから、家で勉強すべき理由を感じなかつたのである。
国語などはほんたうにくだらなかつたと思ふ。私は読書ずきでもなかつた。本を熱心に読むやうになつたのは、二十四、五歳を過ぎてからである。そんな小学生の私に終生わすれない衝撃をあたへたのが、宮沢賢治の『やまなし』の一編であつた。小学校教育の勉強で、わたしの脳みその片隅に、確実な棲処をみつけたのは、じつにこれだけである。現に他の記憶が残つてゐない。じつは、あともうひとつあるが、また別の機会に。
『クラムボンはわらつたよ。』
たつたこの一行に私はどれだけの衝撃を受けただらう。「クラムボン」とはなんなのか? 知りたいやうだが、べつだん、しらなくてもかまはない。それが「わらつた」つて? なんといふことだ! いつたい、なんなんだ、この作品は!
いまおもへば、この一行だけで「詩」になつてゐるのである。私は長らく自分はたゞの散文家と思つてゐた。しかし、つらつら思ふに、じぶんでいふのは何だが、私は詩人の魂をもつて生まれてきたのだと思つてゐる(嗤ふ人はどうぞ嗤つてください)。
『それならなぜクラムボンはわらつたの。』
『知らない。』
「知らない」という否定辞の威力がいかんなく発揮されてゐるが、こんなことは小学校教諭のおしへうる能力範囲をはるかに超えてゐる。そして正体が最後まで明かされることのない「クラムボン」が殺されてしまふ衝撃。えゝっ! こどもには歴史や世界のどんな戦争教育よりも、はるかに効果的な「詩」なのではないだらうか? つぎは空中から飛来してきたカワセミがみごとヤマメを捕食したあとのシーン。
『お父さん、お魚はどこへ行つたの。』
『魚かい。魚はこはい所へ行つた。』
『こはいよ、お父さん。』
「こはい」といふ言葉の使ひ方が並でないのは、教諭が教へる必要のないことである。それはこどもでもわかるのであるから。
蟹の子供らは、あんまり月が明るく水がきれいなので睡ねむらないで外に出て、しばらくだまつて泡をはいて天井の方を見てゐました。
十二月の月夜の水底のなんとうつくしいことだらう。ここもおのづから詩心の喚起されるところ。漢詩などでも、似た興趣をよんだものは数知れないが、こどもにはいづれ余計な説教であらう。
私の幻燈はこれでおしまひであります。
この結びの一文も、私には強い印象を残した。要は、全然わからない話ではなく、むしろ、わかりやすい話ではあるが、ふしぎなイメージと、うつくしさ、残酷さ、ほのぼのした結びなど、複雑な感情がいりまじつて、こどもには消化しきれないものが残つたせゐであらう。それはむろん、詩人だけが駆使しうる筆力によつて齎されたものである。
結論。凡人の書く日本語を教科書に載せるな。詩人の作品のみ、採用せよ。教師はこどもに教へるな。学校はこれを廃止せよ。米軍から押し頂いて、じぶんで制定することもできなかつた憲法は、九条以外をこそ、改正すべきなのである。




