バート・バカラックの名曲です。ダスティ・スプリングフィールドのささやくような声で始まり、少しづつ、音量が盛り上がり、再び静かに終る展開がすきです。
東京スカパラダイスオーケストラの演奏も、消音器をつけたトランペットで始まる、すばらしい演奏です。
たいせつなことは、小さな声でしか、語れない。
そんなメッセージがこの曲にはふくまれているような気がします。
聯想で思い出した、友人から聞いた古い話に、塾講師の採用試験で模擬授業があり、勉強のポイントを示す段で、声を低めた講師があったそうです。なぜそうしたのか、採用面接を担当していた私の友人は、その講師に訊ねたのですが、「わからない」という返事でした。面接官は、友人をふくめ三人あったそうですが、全員、その講師を採用と判断したそうです。
理由は、面接官全員が、話をよく聞こうと、耳をそばだてたからです。
大きな声というものは、全員に届きそうで、じつは、流れ去っていくだけです。選挙演説カーの絶叫がその最たるものでしょう。
恋をささやくような小さな声だけがひとの心に届く。
そんな詩のような言葉にこそ、真実は宿るものなのですね。
この話には、もうひとつ、人の才能ということについて教えるところがあると思っています。この話を聞いて、たいせつなことを話すときには声を低めようと、テクニックを学ぶ人に、才能はないということです。才能というものは、誰に教えてもらうというのでなく、自然にできてしまう人のことを指すのだと。
「わからない」ことにこそ、命が宿っているとも言えそうです。
さて、梅は咲いたか、桜はまだかいナ
明日から三月。春の訪れの喜びよ。
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