「かぶる」はきらいで、「かむる」と言ひたい。そのほうが雅がである。「かぶる」は濁音があるのでいやだ。「かむる」には小供の声のひゞきが残存してゐる感じもして数寄すきである。
明代の一文人は、生活美を追求する本を書き、書は一世を風靡したが、その評語は、嘉よみするものが「古」「雅」「古雅」、唾棄すべきものが「俗」であつた(『長物志 1』東洋文庫663)。「古」は「時流に追随せぬ」頑固さをいふ。
女の帽子は、ココ・シャネルが革命を起して、満艦飾のゴテゴテを廃し(19世紀の終り)、阿弥陀あみだにかむつて、すつぽり小さく女の顔をまとめるものが世界にひろまつたが(20世紀の始まり)、男の帽子は、つば広ひろで、前は下げるものと帽子屋に行けば今でも必ず指南される。しかし、この帽子屋の指南に、私は最初から疑念を持つてゐる。たぶん帽子屋ごときは売る以外のことはなんにも考へてなどゐないからである。
いまではすつかり忘れられてゐるが、女にはヴェール veil といふものがあつた。貴婦人はシャネルがきらつた大きな帽子のうへから顔を覆つてヴェールをかけてゐた。それは顔を直接見られないやうにするためだらう。しかし薄物を透かして、容貌をうかゞふことはできるから、人間は本能的に他人の顔を見たがるいきものであることを考へると、隠したいのだか見られたいのだか判然としない魅惑の小物だつたといへる。歴史上、男がヴェールをかけることはついぞなかつたと思ふから、いかにも女らしい誘惑の手段であつたといへる。現代のランジェリーのやうなものである。
ところで男が帽子のつば先を下げるやう言はれるのはなぜだらう。女の帽子は小顔にみせ、あみだで容貌をあかるく見せることへの対照のためだらうか? 男と女はちがふのだから、という区別論である。たんに帽子を風に飛ばされにくゝするためといふ実用的理由もあるだらう。或はヴェール論と同じく、顔を見えにくゝして、男の魅力度を上げるといふ理由があるかも知れない。これが結構信憑性が高い気がしてきてゐる。世の中は明朗なばかりではなく後ろ暗い世界もあるもので、現代人がサングラスをかけたりするやうに、男は帽子でいくぶん顔を隠す傾向があつた、のかも知れない。
このへんのことは実は全く不勉強で、でたらめなことを書いてゐるのだが、私には帽子にたいへん詳しい若い友人がゐるので、今度聞いておくとして、私が反時代的に、帽子をかむつてゐるのは、帽子をかむつた姿が男はたいへん雅がだからである。画えになる。日差から地面に映る人影をみればほんたうにさうとわかる。そして私は生来「古」にうまれついてゐるので、ふるい時代の名残を守らずには済まないのである。たゞ、私は帽子のつば先をおろさない。あみだにかむつて、ひろびろとした気持でゐるのがすきである。さう、これは私のすきな「童心にもどる」感覚をも兼ねてゐるのである。通学する学童が、帽子を今もかむつてゐる姿は、いつ見てもかわいゝ。
なほ、政治家の麻生太郎氏が帽子をすこし斜めに傾かしげてゐるのは、別段気取つてゐるわけではなくて、まつすぐにかむつてゐると大の大人がバカに見えるので、さうするのである。帽子を知らない人のための注意書とする。麻生氏のかむつてゐる帽子は、キット、私もかむつてゐるボルサリーノだと思ふ。一級品で、これをかむると他の安物はかむる気になれない。京都きんぺんでボルサリーノをかむつてゐる老紳士を一度だけみたことがある。遠めにみてさへ、それとわかる。帽子は安物かさうでないか、ほんたうにすぐわかるから、どうせなら、一級品をえらんで購ふのが良いと思ふ。






