なにか思い立って、再び見てみた。『風たちぬ』。
美をもとめる物語である。
主人公の堀越二郎は、武士の子らしく、厳格にして慈愛ある母がある。父はあるようだが画面には登場しない。きゃしゃな妹がある。これが将来の妻、菜穂子の伏線。「美人」とは、華奢で蒲柳の質でなければならない。「健康美」は美人の条件ではない。反現代の映画である。
飛行機をつくる夢をもっている。
たましいは、常にそらへ飛翔している。
天上大風。
良寛さまの好きだったこの文字が、映画のところどころに出てきて、すずしいこころもちがする。
秀才なので、帝大に進む。トップエリートである。大震災(大正12年)の前から洋装している。並の秀才ではない。昼飯にたべる鯖の味噌煮。その鯖の骨にさえ、美をみいだしている。
大正、昭和の時代の日本の風景がうつくしい。水運がたいへんに発達していた。「一銭蒸汽」があったのである。東京は水の都だったことがよくわかる。そして「戦争の時代」。男たちは暇あればたばこをふかしている。「たばこ」は戦争と切ってもきれない。最近の禁煙習慣は「平和」のたまものである。また時代が変ればぞろ復活するだろう。いいかげんなものである。
「この国はどうしてコウ貧乏なんだろう」というせりふがある。
意味は二義的である。
ひとつは嘘である。江戸は開国の際ゆうに人口百万都市だったのである。当時そんな都は、世界を見渡して数えるほどもない。国が豊かでなければ人口は増えない道理だ。日本はもともと豊かな国だったのである。
ひとつは今も続く、文字通りの意味である。文化的な面では正にその通りだ。つまり、美が、ない。
風たちぬ。いざ生きめやも。
ヴァレリーのこの言葉は皮肉に感じられる。「生きねば」という一方で、美のない世界でいきるのは、くるしいと映画は言いたげである。「ここは魔の山。俗悪なこと、ぜんぶ忘れるため、ここにいる」と謎のドイツ人カストルプのセリフも意味深長である。
帽子が印象的な映画でもある。堀越も菜穂子も、優雅な帽子をかぶっている。それがすずしい。現代の日本に最も欠けたものである。厚かましさと暑苦しさがかわりに居座っている。
菜穂子は堀越にうつくしい思い出だけを残して世を去る。
空の美しさだけが、堀越の孤独を癒してくれるようだ。
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