病気の説明 6
Student Apathy
「学生の無気力」とも訳すべき、この言葉は、笠原嘉の発見によっている。笠原嘉は、若き京大医学部精神科助教授として、昭和43年、時計台そばの京都大学保健管理センターに赴任するが、それまで京大病院で診てきた分裂病やうつ病など、精神病圏にある患者とは、まるで見当はずれの、無気力で長期留年しているが、いったいこれのどこが病気なの? という健康なわかものに沢山であって、面食らう。
頭がよく、高学歴で、性格も明朗、病気の影など一見どこにも見出せないにもかかわらず、本業の勉学を怠り(アルバイトや合コン、じぶんの趣味などには、十分元気を発揮している)、ずるずる留年、遂には退学してしまうことがある。
これは異なことだと笠原は、これを『退却神経症』とまとめるが、その名著『精神病』(岩波新書)や『軽症うつ病』(講談社現代新書)に比して、はなはだまとまりの悪い論考となっており、これは失敗作だと小医は長らく、きめつけていたのですが、京都のまちなかで開業しましたら、出会いましたよ、笠原大先生がみいだしたわかものたちに! その記述に寸分たがわぬわかものたちを、この1年間で10人も診ました。半数は、やっぱり、京大生です。
ああ、笠原のいう「スチューデント・アパシー」は、今も生きているのだ! 笠原大先生が、著書をだされて30年以上も経っているというのに、ニッポンの精神医学はいったい、進歩して来ているといえるのか? イヤイヤ、受診したわかものの一人が「さいきん夏目漱石の『それから』という小説を偶然読んだら、主人公の代助がですね、じぶんに余りにもそっくりだったんで、びっくりしたんです」と白状するから、もしかすると、日本の精神医学は100年以上も、進歩してこなかったと言えるかも知れません。
とはいえ、結論だけ手っ取り早くいうと、笠原嘉がみいだしたStudent Apathyとは、要は、ADHD(注意欠陥多動症)のことだったのではないかと、小医はにらんでおるのです。
医聖ウィリアム・オスラーが畏くも宣ったように、医者は患者の話に耳を傾けているだけで、診断は患者のほうから医者に教えてくれるものなのです。
現に10人のうちのひとりが図書館にこもって精神科に関するいろいろな本を読破したあげく、笠原嘉の本の中の「スチューデント・アパシー」にじぶんは一番よく当てはまっていると思うと小医に教えてくれたのですが、その弟がADHDで、母がコンサータを飲んだら情動が安定し、本人は小医が処方したストラテラを飲んだら生活がようやく自立できるようになったというのです。
ADHDの本質は、部屋が片付かないとか忘れ物が多いとかそうした表層的な所見にあるのではなく、小医のみるところ、じぶんのすきなことにはパッととびつくが、じぶんに興味関心のないこと、じぶんが気の進まないことには、「イヤだ!」と非常ブレーキがかかるというところにあるから、Student Apathyとは、やはりADHDのことなのだと重ねて強調しておきたいと思います。
なお、ADHDには濃淡はさまざまですが、かならずAS(自閉スペクトラム)がセットになっているように、小医には感じられます。
発達特性について、小医が本質と考えるところを、この論考に合せてザッとだけ記述してみましょう。発達特性者にも色々あって、ここではあくまで、一つのタイプとして提示します。
まづ、発達特性者の両親には高学歴者が多い。これは統計学的には否定されているらしいのですが、実際の臨床では疑い得ない傾向です。
学校教師、公務員、コンピュータ関係、医療・法曹・経理などの専門職がその典型であります。本人も高学歴です。
はたから見ると何でもできそうに見えて、恵まれている境遇にある。優等生である。人当りもよく、優しい。しかし、意志のちからが弱い。自立性に欠ける。他から決めてもらわないと自分では規律できない。万事受身である。そのくせ、じぶんがなっとくしなければ、気が済まないというから、その点、甚だわがままである。かといって、じぶんで他の選択肢をえらびとることもできない。ぐるぐる頭のなかで堂々巡りをどこまでもくり返す。いつまでも愚図愚図しており、将来の計画が立たないので、とりあえず、いまをやり過ごせることができればそれで十分だと少々なげやりである。じぶんが決断をして解決すべき問題を他人に寄せることさえある。この点、未熟幼稚、他者依存的と評する他はない。御付の者がいなければ何にもできないお殿様かお姫様といった感のある人もある。実際にいつまで経っても親離れ子離れできずに母子密着が著しい例もある。
総じて「じぶん」というものがない。何を考えているのか、表情がよめないことが多い。一見、顔のつくりも美男美女で、シッカリしていそうに見えることもあるから、余計たちが悪いかも知れない。「じぶん」というものがしっかりしていないので、性意識すら、はなはだあいまいな人もある。自信というものを欠きやすいので、傷つくことも多い。その点はなはだ繊細である。
じぶんの体調に甚だ心気的である。過敏すぎるほどである。心の中の葛藤の消化能力に欠けるためだろう、ストレスが体の症状となって出やすい。しかし何が自分にストレスとなったのか、なっているのか、甚だ鈍感であり、自分だけではなかなかよくわからない。医者に指摘されてようやくそれと気づく人がある。
私利私欲に甚だ欠けるところあり、公益というものをよく考えている。道徳的でありすぎる面がある。世のため人のためと高尚なことを考えるが、現実的な力をもたないので、言うことは口先だけである。なのに、自分の理想にはいつまでも囚われて、ぐずぐず言う。
にんげんの私利私欲の根源たる、感情というものに甚だ弱い。他人から怒りや嫌悪の感情を向けられることを大変嫌う。人の好き嫌いは激しいくせに、それを認めることも、じぶんが好悪の感情を他人に対してあらわにすることも嫌いである。世の中が純粋にロジックで動くものならば、どんなにかいいだろうと願っている。
趣味が良い。アートをたいへん好む。色彩や香などに敏感である。しかし、じぶんの生活を底辺で支えているものが何か、よくわかっていないので、万事よそごとのように見ているところあり、現実適応力ははなはだ欠ける。
お金をかせぐ術や苦労というものを知らぬ。この世へのみれんがうすいのか、困難に遭遇すると、いともあっけなく自殺してしまうことがある。他人や世間というものが自分とは別に、この世に存在していること自体がわからない。その意味ではどこまでいっても自己中心的である。ある意味、生まれた時からヴァーチャルな世界の住人である。或は単純にsocial idiotというべきか。…
上記のような特性をもった人の実例を、小医は、開業して以来、何人も見て来ている。上記は決して、想像の上だけで存在するような抽象的なまとめではない。ある種のタイプとしては、具体的実際的なまとめである。笠原嘉の師匠たる村上仁教授は、仮設例はともかく、実例がある限り、必ず、真摯に耳を傾けたという。発達特性については、別にも詳しく論じるので、その説明を読んでいただきたい。
小医も、この夏休みに『それから』を再読してみたところ、主人公の代助が、あまりにも上記に当てはまっていたので、しばし放心したことを記しておく。
参考文献
笠原嘉『精神科と私』(中山書店、2012年)
笠原嘉『アパシー・シンドローム 高学歴社会の青年心理』(岩波書店、1984年)
笠原嘉『退却神経症』(講談社現代新書、1988年)
稲村博『若者・アパシーの時代』(NHKブックス、1989年)
夏目漱石『それから』(岩波文庫)
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