以前ご紹介した、松本たかし(1906-56)の句。
海中わだなかに都みやこありとぞ鯖火もゆ
山本洋子、上村占魚のふたりがこの句を解説してゐるが、鯖は、火のあるところに集まる習性があるので、漁火を焚くのだと云ふ。都うんぬんは主観的幻影だといふのだが、「幻影」の中身については全く不知のやうで、なんのひとこともない。これでも、こいつらは、俳人だらうか。
答は『平家物語』である(巻第十一「先帝身投」)。
先にも書いた如く、義経は壇ノ浦の合戦において、非戦闘員の船頭、舟漕まで、容赦なく射殺すなり斬り殺すなりしたから、平家の舟は操舵不能となり、源氏の兵どもが平家の舟にドンドン乗り込んできた。人生をかろく見る、どこか哲学者ふうの新中納言知盛卿は、もはやこれまでですな(「世の中は、今はかうと見えて候」)と悲しむでもなく怒るでもなく、最期が見苦しくないやうにと平家の舟を自ら掃除したりする。女房達には、みなさん東男を経験できますよ、とたはむれを言つて、アハハハと笑ふ。
二位尼(知盛の母、清盛の妻時子)は、神璽を脇に、宝剣を腰に差し(神璽、宝剣は三種の神器の二。神璽は勾玉)、八歳の安徳天皇を抱いて「わが身は女なりとも、かたきの手にはかゝるまじ。君の御ともに参る也。御心ざし思ひまゐらせ給はん人々は、急ぎつゞき給へ」
こゝに、二位尼の性格は明確に描かれてゐると思ふ。さすが清盛の妻であつた人だといふ感じがする。これに反して、女院(安徳天皇の母の建礼門院。徳子)は、海に身をなげるが、源氏の兵に救ひあげられ、生きながらへて京都にひきあげ、のち大原に隠棲して没するのだが(灌頂巻)、二位尼に見られるやうな強烈な意志や主体性などは、まるで見られない。
安徳天皇が問ふ。「尼ぜ、われをばいづちへ具してゆかむとするぞ」。八歳の子供が祖母に問ふ、このシーンは、子をもつた親なら、自然なみだがこぼれて来てしかたがないところ。「平家の運はもう尽き果てゝしまつたのです。東に向つては伊勢神宮においとま致しませう。西に向つては、西方にたいへんおめでたい極楽浄土といふところがあつてね、そこからの御迎へがあるとのことですから、そこにたどり着けるやうに御念仏を御唱へしませうね。おばゞはそこへそなたをお連れするのですよ」。安徳天皇は、二位尼のいふとほり、ちいさな手をあはせて東を拝み、西には南無阿弥陀仏をとなへると、二位殿やがていたゞき奉り「波のしたにも都のさぶらふぞ」となぐさめたてまツて、ちいろ(千尋)の底へぞ入給ふ。
『平家物語』のクライマックスのひとつ。こんなにも劇的なシーンが日本の古典文学にはあるのです。人々が極楽浄土への往生を願つて、西方にむかふ話は、芥川龍之介の『往生絵巻』にもおさめられてゐますし、『方丈記』で有名な鴨長明は『発心集』といふ説話集を編んで、四国から舟に乗つて西方の補陀落山をめざす男の話、大阪の四天王寺で舟に乗り西に向つて身を沈める女の話が紹介されてゐます。いづれも深く「自殺」と結びついてをり、仏教といふ危険思想を安易に受け取ることはやはり禁物だと思ひます。日本の自殺率が共産主義国と同等に高い背景は、日本が仏教国であることと無縁ではないと思ひます。
悲哉かなしきかな無常の春の風、忽たちまちに花の御すがたを散らし、なさけなきかな、分段のあらき浪、玉体を沈めたてまつる。殿をば長生と名づけて、ながきすみかと定め、門をば不老と号して、老いせぬとざしとかきたれども、いまだ十歳のうちにして、底のみくづとならせ給ふ。
おいたはしき事限無し。







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