退院してからといふものは、ほんたうに現金なもので、鬱状態 depressiver Zustand だつた数カ月間「どのみち死んでしまふのに、いまさら本など読んで何になる」と全く放擲はうてきしきつてゐた読書を、堰せきの切られたごとく再開して、殆ほとんど一日中といつていいほど耽ふけつてゐるのに、われながら、呆あきれてゐます
きのふ手に取つた本は、ココ・シャネル Coco Chanel (1883-1971)の伝記本(イザベル・フィメイエ著、鳥取絹子訳『素顔のココ・シャネル』河出書房新社、2016年)。
いちどサラッとは目を通した本ですが、本は二度は読んだ方がいいですね。理解が深くなり知識が定着します。
かうやつて、本を読んでは文章を書くことも知識の定着には、ほんたうに役だつのですが、誰もしませんね。わたくしがべらべらと一席やつて、「よくご存じですね」と他人ひとからお世辞をいはれるときの詳しい知識は、たいてい、このやり方で得たものです。
文章、特に、随筆の書き方には、テーマ(X)を決めて、Xをつなぐ、いろいろな書物(α、β、γ、…)と実体験(A, B, C, …)を巧みに並べるのが定番でせうかね。たとへば、X=A+α+β+B+C+γといつた具合ですね。あと、結びに、エッセイの内容をまとめる意味の俳句か短歌を置くと、完璧(これは女優の高峰秀子がじぶんのエッセイで時どきやつてゐた。しかし江戸時代の随筆からある伝統的な手法)。
かうした場合、書物からの引用はおのづとテーマに合せて部分的なので、どこに何が書いてあつたか記憶が確たしかでなければいけません。そして所詮は知識の断片的切貼きりはりとなるので、叙述が平坦にならぬやう心を配る必要があります。おのづと随筆においては、多読精読を背景とした、読者を酔はせる高い筆力が要求されますし、実体験ほど、人を話に引き込ませるものはないので、好奇心をもつて外界を渉わたる準備を怠らないことですね。
シャネルといへば、ヌメロサンク(ナンバーファイブ)。
この本によると、シャネルは神秘主義者で、5や2、22、19といった数字に幸運の縁起をかついでゐたやうです。5番は1921年5月5日発表。22番は翌1922年発表。ココ最愛の男性「ボーイ」ことアーサー・カぺルは、1919年2月22日午前2時交通事故死。
死んだといへば縁起が悪いようですが、カペルの神秘主義に洗脳されて、ココは、魂たましひの不滅論を信じてゐたやうです。19日はココとココの愛した父の誕生日。
元来高級娼婦であつた(このことをハッキリ指摘する記述は諸本において尠すくないが、フランスの歴史上においては明らかな事実)シャネルには、愛人が、大資産家のエチエンヌ・バルサンから始まつて、アーサー・カペル、ディミトリ大公、ピエール・ルヴェルディ、ウェストミンスター公、ポール・イリブと、ずつと途ぎれることがないのですが、その理由は、おそらく父の愛を求めての行動だつたと考へるのが、ココの人生全体からの視点でみると、いちばん理にかなつてゐるのだらうと思はれます。
いはゆるファザコンですね。単に男数寄とかさういふことではないのでせう。驚くなかれ、ココはその晩年に至るまで、自分を孤児院に入れて姿をくらました「父の帰還」を待つてゐたといふのです。胸の痛むエピソオドです。
さて、シャネルの花といえば、椿(カメリア camellia)で、それは必ず白色といふお約束ですが、白の花なら、ほんたうは甘い香りのするクチナシの花 gardenia が好きだつたのださうです。ために、ウェストミンスター公はその広大な居城の温室に育てたクチナシを英国からフランスにゐるココに届けたりして、贅沢三昧のモーションをかけたとか。しかし、ココはじぶんの「素顔」が外に出るのを怖れて、クチナシのほうが好きだという「甘い」事実は公式には伏せてゐたやうです。シャネルの人生については、その「恋愛」といふ点に着目して、近い内また別に書いてみます(予告)。
香水の香のそこはかとなき嘆き 万太郎
クチナシの花は、むすこの通う学校の垣に初夏たくさん咲いて、私も大好きでした。荷風散人は沈丁花がすきで、麻布の偏奇館にたくさん植えてゐたやうです。
二階の書斎には本がぎつしり並んでをりましたが、その中でもとくに鷗外先生の全集が一番目のつくところに飾られてゐるのを、印象ふかくおぼえてをります。(中畧)春になると、門から玄関のところまで植ゑられた沈丁花のすばらしい香りがなんともいへず、お宅から二、三丁さきからぷうんと匂つてくるほどでした。(関根歌「日陰の女の五年間」多田蔵人編『荷風追想』岩波文庫、133-4頁)
さて、今日は、弊院ホームページ制作者の、佐藤さんがお午ひるにいらつしやり、体調いかがですかとお見舞ひくださいました。すてきな花束をくださり、ありがとうございます。じつに美しく、大変うれしゆうございます。佐藤さんには御多忙、御繁盛の由、お慶び申上げます。今後共よろしくお願ひ申上げます。
この記事へのコメントはありません。