おおきに。
いい言葉です。なによりも響、よし。
関西弁を代表とするものとして、横綱級、といえるかも。
しかし、うまく使いこなせるか、というと、それはどうか?
年齢が要る、と思います。
若い人が、「おおきに」なんて使うと、この若輩者がえらそうにとかなりそう。わかものには「ありがとうございます」が似合っている感じがある。
しかし、いい年をした大人がいつまで「ありがとう(ございます)」とかゆうてると、傍から見ていて、ばかに見える。特に女性。
何事も年齢にふさわしく。それが美というもの。
わたしも「おおきに」と言って、似合う年になったなあと思います。
商売人が使わないものだから、客が使うのは本来おかしいようだが、さいきん意識して、使うことにして、教育のない店の者まで莞爾としているから、「おおきに」の言葉の響がいかにもここちよいのだろうとわかる。
ところで、京都で何がきらいといって、それはタクシー運転手のモラルが低いことである。
短い距離をいうと、露骨にいやな態度をとる。いちど、沼津にいた時に、こういう態度はいかがなものだろうと、タクシーの運ちゃんに訊ねたら、「そら、お客さん、タクシーの方があきらかに悪いですわ」という答を得た。能代にいた時は、いかに短い距離でもいやな顔をされたことは一度もない。しかし、京都では大昔からしょっちゅうである。コロナ禍で痛い目に合っているというが、ざまをみろ、正に天罰てきめんである。天網は恢恢、疎にして漏らさないのである。
おおきに、の言葉は、客をおろして、ありがとうございますの一言も発さない、料簡違いをした京都のタクシー運転手を退治する上でたいへん効き目がある。そういうとき、京都の舞妓さん風に、え・ら・い・お・お・き・に、と優美にやるのである。耳をつねるようにして、立場を思い知らせてやることができる。
なにわの文人であった牧村史陽先生が、だいきらいだったのは「新婚さんいらっしゃい」。「いらっしゃい」は東京ことばで、関西弁なら「おいでやす」が正解なのだ。桂三枝(現、文枝)が今でもおちゃらけた表情と身ぶりで「いらっしゃい!」と番組冒頭にやるのはそのためであるが、その「意味」がわからない関西人が増えて、「大阪弁を崩すのは大阪人自身である」(大阪ことば事典「おいでやす」)と慨嘆にたえない。
私がだいきらいなのは、店に入る時の「スイマセン」という声かけである。卑屈な響がきらいである。響よいのは、やはり「ごめんやす」「ご免ください」である。私のいうことがわからないという人もあろうが、そういう人もいっぺん着物をきて買物でもしてみたら、この感覚がすこしはわかるであろう。しかし、そういう人が着物を着ることはおそらくないので、理解できることは永遠にないのである。現代は「コミュニケーション」の時代だとか調子のいい理解がはやっているが、そもそも「理解しえない」文化的断層のほうが、かぞえ切れないほど、ひろい世間の四方八方に走っているように思われる。
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