メッサーザイテ

東大法学部には25番教室といふのと31番教室といふ、大教室がふたつあつて、代表的な講義は、だいたいこの二つで行はれてゐた。

わたくしの時代、商法第二部の講義は、山下友信といふ先生が担当してゐて、この先生は背が高く、「教授会に出ますと、わたくし一人背が高いものですから、身の置き所なく、小さくなつてゐます」といふ話に学生は爆笑した。

といふのは、これはほんたうのことだからである。民法の内田貴は教授陣のなかでは官僚然として長身の優男であつたが、思ひ出すだけでも、刑法の山口厚(これはのちに最高裁判事になつた。しかし子供の時から勉強ばかりして結局何になつたのであらうとわたくしにはさうとしか思へない秀才である)、西田典之、民法の米倉明、民訴法の新堂浩司、日本政治思想史の渡辺浩、日本近代法制史の和仁陽は、みんな身長が170センチを超えず、小供なみのチビ揃ひであつたからである。ほかにもチビがいくたりかあつた筈だが、思ひ出せない。

「アイツらは、小学生のときも勉強ばかりして、寝る子は育つといふのに、塾漬けでチャント寝なかつたから、あゝチビッ子になつちまつたんだ」といふのが口の悪い学生たちの定説であつた。私は是とした。山下教授はかう続けたものである。「わたくしは地方の公立高校出身で、ガリ勉ではございませんでしたから…」。

その後、神戸大学の医学部に這入つたら、早速、医療の現場を体験してみろといふ趣旨でか、1週間ほど、耳鼻咽喉科に見学することを指示された。6人ほどかたまつて、耳鼻咽喉科教室の前で、待機してゐると、助教授といふ人が出て来て、入れといふ。「君らは、耳鼻咽喉科にどういふイメージをもつてゐる?」と訊くので、私は、I have no idea 状態だつたが、要領のいゝ中條くんなどは、「開業医でいひますと、内科的イメージでせうかね。花粉症のお薬を出す」とソツのない返事をしたから、助教授は、ウムと徐おもむろに頷いた後、「しかしな、耳鼻咽喉科の本質は、Messerseite メッサーザイテなんや」と、こゝぞとばかり、力りきんで話をした。

メッサーザイテ?

なんだ、それは? といふ疑問が、六人の医学生の顔に走つたが、助教授から解説はなかつた。医学部で学ばれる外国語は、今でこそ英語だが、いまだに外科の現場ではドイツ語(或は、ドイツ語もどき)が好んで使はれる。音のひゞきに代へ難いものがあるのである。ドスが利いてをるのである。血液はブラッドbloodではなく、ブルートBlut、白血球はWBC(white blood cells)ではなく、ワイセ Wiesse、胃はストマックstomachではなく、マーゲンMagenなのであつた。 Messerseiteは正にそんな和製ドイツ語で、メス(Messer)の側(Seite)といふ「外科」をあらはす「ドイツ語」なのであつた。

その意味は病棟にいけば直ぐに知れた。頸部や顔が腫れあがつた人ばかりがあるのだもの、頭頚部癌の手術をする科なのだな、といふことであつた。患者の顔はみな陰鬱で、悲惨そのものであつた。われわれは文字通り言葉を失つた。

翌日、教授とご対面といふ手筈になつた。教授は大学病院内のどこそこで待つてろといふので、待つてゐたら、小柄で童顔の先生がほがらかに、まだ医学部1年生のわれわれに「いや~、センセイたち、待つたかい?」と、わが子を見るやうに、愛情ぶかく優しい声で、一人ひとりに握手してくれた。丹生健一先生は、小柄だけあつて、灘校卒、東大医学部卒であつた。小学生の時に勉強ばかりしてゐた子は背が低いといふ仮説はこゝでも正しいと裏付けられたのである。手術の見学も許された。先生は、じつに楽しさうに手術をなさる方で、ほんたうに天職なのだなと感じさせられた。手が大きい奴は術野を塞ぐので外科医に不向きなのである。外科医は手がちいさい方がよい。その点からも丹生先生は、向いてゐたのだらう。

わたくしは、皮膚科医になることをあきらめたから、外科医とは全く縁のない人生を送つてゐるが、このときに丹生先生が、医学部1年生にかけた「センセイ」といふ呼びかけが一生忘れられそうもない。

医学部に入学したその時から、医者の職業人生は始まつてゐるのであつて、学生だとかそんな言ひ訳は通用しない。患者さんの目から見て、医者と医学部生の違ひはつかないから。大学といふ高等教育を受けた身分である以上、人から教へてもらはうとはゆめゆめ思ふなよ。みんなじぶんの頭で考へて、自力でやること。おそらく優しい丹生先生にはそんな厳しい考へはなかつたらうが、わたくしは、さういふ意味をこめてよいと解釈してきた。「センセイ」と呼ばれるほどの職業に就いてゐる人間は、かならず心すべきことだらうと疑つてゐない。

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