本論に入るまへの前置きに…。(辛気臭い内容なんで、歴史に興味のない人は、(3)回へ進んでください)
80年前に廃止された、日本の華族制度について、参考までに、おさらひしておきませう。
本来、人間社会は、貴族制Aristocracy が当然。民主主義社会なんて、クソくらへ。だつて、人間は平等ではないから。平等でないと言つて、それは決して悪いことではない。人間には個性がある、と言つてゐるのである。民主主義社会はそれを「平等」の名の下に否定する社会なのである。教科書が正しいことを教へないから(日本の教科書はことごとくが「赤化」されてゐる)、私がこゝで教へてあげる。私が民主主義社会をきらふのは、ダサいから。みんな口をそろへて同じことを言ふ。頭がわるい。藝術はてんで分からない。大衆mass people は、数を恃たのんで無理を通すから、存在じたいが悪である。貴族制を好むのは、ダンディズムdandysim といふ名の自由主義があつて、少数の凛凛りりしい男と女がそこにゐるから。ツマリ、前者に美はなく、後者に美がある。オスカー・ワイルド(1854-1900)は、前者は灰色grey の世界で、後者は華やかflamboyant な世界だとわかり易く言つてゐる。現実に、白黒写真はなく、あるのはカラーばかりだから、自由主義に基づく貴族制のほうがはるかに現実的なのである。民主主義は虚妄の制度である。いつか再び、不義の正されん日が来ることを望む。附記)私は東大法学部といふのは権力の中枢にいちばん近い場所だから、権力主義の現実をこれでもかこれでもかと教へてくれる痛快な場所かと期待してゐたのに、出てきたのは、日本国憲法を守らうとか、民主主義を護持しようとかいふ腰抜け教授ばかりで、こんなバカなことを言ふ位なら、別に東大教授の肩書など要らぬと思つた。脳味噌は全くいらない商売だ。
サテ、爵位制度は、公・侯・伯・子・男と憶おぼえる。公爵。侯爵。伯爵。子爵。男爵。
明治開化史で習つたはずだが、みんな忘れてゐる。私も、実は、つまびらかにしない。
歴史の教師も教へる気がないから、益益「人間に上下あること」を知らない(知りたくない)連中が増えていく。しかし知ると、政治権力がいかなる勢力に色目を使つてゐたか、よくわかる。
色目を使ふ(いかなる人間を鄭重にもてなし、いかなる人間を滓カス扱いするか)ことは、これからも、にんげんといふものが政治社会を作つて生きて行く限り、絶えることがないだらうから、明治政府の例を少々みてみるのは決して無益ではないと信ずる。
あるサイトによると、公爵は、19人しかゐなかつた。勢力は、藤原家、薩摩藩主、長州藩主、徳川家、一橋家(徳川慶喜)、これに、それまでの時代なら鼻にもかけられなかつた、岩倉具視、伊藤博文、山縣有朋、大山巌、桂太郎、松方正義が授爵され、かれらが真の実権を握つてゐるが、旧制度のお歴歴にも、目配りしないわけにはいかなかつたことがよくわかる。
侯爵も、高高43人しかゐない。藤原家、徳川家、各藩主、宮家、これに成上りの西郷従道(じゅうどう。隆盛の弟。大西郷に対して小西郷)、井上馨、小村寿太郎、大隈重信、東郷平八郎などがある。
伯爵は、114名。内訳は、藤原家ほか名家、徳川家、各藩主、宮家、これに成上りの黒田清隆、寺島宗則、山田顕義、副島種臣、板垣退助、後藤象二郎、樺山資紀、陸奥宗光、小松帯刀、乃木希典、山本権兵衛、寺内正毅、伊東巳代治、牧野伸顕、加藤高明、清浦奎吾、後藤新平、金子堅太郎などがある。
子爵は、388名。内訳は、藤原家ほか名家、松平家、各藩主、これに成上りの谷干城、三浦梧楼、品川弥二郎、青木周蔵、森有礼、榎本武揚、三島通庸、井上毅、川上操六、児玉源太郎、渋沢栄一、高橋是清、石黒忠悳、加藤友三郎、斉藤実などがある。
最後に男爵。これは446名。各藩主、各藩家老家、薩長雄藩の群小下級武士多数、群小名家、神社神官家、これに成上りの槇村正直、元田永孚、前島密、益田孝、団琢磨、幣原喜重郎、田中義一、平沼騏一郎、若槻礼次郎、荒木貞夫、鈴木貫太郎や富豪(三菱、三井、鴻池、住友、藤田伝三郎、大倉喜八郎、古河虎之助)のほか、医家、学者などの西周、箕作麟祥、大鳥圭介、松本順、穂積陳重、青山胤通、北里柴三郎、一木喜徳郎、長與又郎などが並ぶ。
「爵位」といふ観点からみる限り、明治における「革命」といへども、大砲をぶつ放して維新政府を起した連中は比較的少数派で、「無能」な旧体制派は、多数派を占め、のうのうと比較的従来の地位に安住できてゐたやうに見える。
明治政府を毛嫌ひして、ずつと一定の距離を置いてゐた福沢諭吉は、むろん授爵されてゐない。子爵・石黒忠悳の有能な部下であり、元勲・山縣有朋とも極く近い距離にあつた森鷗外は、津和野藩医の家柄であつたことをおもへば、男爵に授爵されても、まつたくふしぎではなかつたはずだが、「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺言をのこして、政府から出るであらう栄典をすべて拒んだ。鷗外一流の反骨心であらう。これに比べれば、漱石の博士号辞退などはちいさい話だ。茶人の益田孝(鈍翁。三井財閥を率いた)、住友友純ともいと。元勲・西園寺公望の弟、藤田伝三郎は男爵を授爵されてゐるが、野村証券創業者の野村徳七には、授爵されてゐない。東大の憲法・行政法教授であつた一木喜徳郎が男爵なら、美濃部達吉も当然男爵だらうが、これも授爵されてゐない。
私も爵位などとはいつさい無縁のまゝ、十五年後くらゐにはこの世を去るのであらうが、「爵位」の観点で明治政府をながめると、歴史が立体的にみえることがよくわかり、今回の調べ物の労も報はれたといふものである。
たゞ、日本の華族制度をみるに、政治色・軍事色が濃厚で、華やかさに乏しい。
ほんの一瞥いちべつに留めるが、美濃大垣藩(10万石)の元殿様、戸田氏共伯爵に嫁いだ、岩倉具視次女、極子きわこ伯爵夫人(comtesse; コンテス)は、「鹿鳴館ろくめいかんの華」と呼ばれたらしい。さらに美人として夙つとに有名なのが、外交官・陸奥宗光の妻、亮子伯爵夫人である。たゞし、これは新橋の芸者あがりである。伊藤博文や渋沢栄一など、明治の「偉人」たちは新橋の芸者が大好きであつた。(→(3)へつゞく)







この記事へのコメントはありません。