暑い暑いとはいひながら、夏は確実に去つていかうとしてゐます。

むかし、八瀬に暮らした頃の、晩夏の思ひ出にかさなるのが、芭蕉翁の次の一句。『おくの細道』より、山形の立石寺で詠んだ、あの一句。私も立石寺には、なぜか二度往つたことがある。で、たしかに蟬は鳴いてゐた。

しづかさや岩にしみ入いる蟬の声

サテ、問題は、こゝで鳴いてゐる蟬は何ゼミ? それが最近気になつた。当然昔に論争があつたらうと思つて調べたら、果してあつた。大正15年に精神科医で歌人の斎藤茂吉は、これはアブラゼミに極つてるのだと断言したらしい。さすが東大医学部をビリから2番目に卒業しただけのことはある。センスのないこと、夥しい。漱石の弟子の小宮豊隆が、何を言つとるか、これはニイニイゼミなのだと反論。その後、昭和5年に実際に立石寺きんぺんの蟬をいろいろ捕獲してみたら大概がニイニイゼミであつたといふことです(佐竹一秀氏論考)。

しかしねえ、科学的実証主義はこの際措いて、佐竹氏もいふがごとく、私はこの蟬は、ヒグラシとするのが、正解だと思ひます。芭蕉翁はこの地がいかに「清閑」か、「佳景寂寞じゃくまくとして心すみ行ゆくのみおぼゆ」と最大限にちかい賛辞を呈してゐるのですから、それに相応しい森閑しんかんとした鳴き声を呈する蟬は、蜩ヒグラシを措いて外にないのであります。だいたい『おくの細道』じたいが、ずゐぶんと理想的な紀行文となるやうに脚色のうへに脚色をかさねてつくられた漢詩的世界。さうだとすると、これは現実がどうでも、文学的に高い境地のものでなければならない。

ニイニイゼミぢや、あきまへん。あゝ、アホクサ。

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