わたくしは、よく人から道をたづねられる人間だと、おもふ。
あきらかに人相のよくない人を選んで、人は道を尋ねたりしない。この人は大丈夫だらうな、冷たいあしらひはしないだらうなと見込んで、人は道をその人に訊く。私じしんさうしてゐるのだから、みなさんもキットさうだらう。数週間まへに、「烏丸コンベンションホールはどこでせうか」と、たづねられた。場所は東洞院通と蛸薬師通の交差点の電柱きんぺんである。歩行者優先のはずなのに、先を急ぐタクシーが、マナー違反をしよつちゆう犯してゐる場所である。京都のタクシー運転手はなるほど日本一悪辣だと思ふ。
それはさうと、どこかで聞き憶えのある名である。この近くにあるのはまちがひない。残念ながら私は今わからない。しかし、この先にある男女共同参画センターのウィングス京都へ行きなさい。そこに行けばキットおしへてくれると言ってわかれた。あとで気づいたが、ナニ、いつも私が花市に花を買ひにいく道中のまんなかにある、あのビルのことぢやないか。気の毒なことをしたものである。私に道をたづねた男が、50前後で、あきらかに汚いなりではないが、お金によゆうはないやうで、対人緊張も強く、私に道をたづねるのも精一杯のおもひをしてゐたであらうことは明らかだつたので、よけいに気の毒なおもひをした。
気の毒、といふ言葉で、私がかならず思ひ出すのが、『坊ちやん』なのである。それで読み返さうとして岩波文庫で読んだのを探したのだが、わが書架に、ない。
昔、物書きが、同じ本を二回も三回も買ふとかいふのを読んで、最初嘘だらうと思つてゐたが、あまりに本を持ちすぎると、たうたうわが身にもしよつちゆう起きることになつたので、今は諦めよく、コガネ書店四条ジュンク堂書店なきあと、京都で一番のチェーン店になつたが、こゝは書店の名に値しない。一見たくさん本は置いてあるが、売筋の本しか置いてゐないからである。ほんたうに本を愛する人のためには全く作られてゐないから、私はコガネ書店を書店と認めない。なほ、コガネ書店は仮名である。(笑) 実名は、わかる人にはわかるでしょ。に探しにいつたら、岩波文庫がなかつたので仕方なく新潮文庫で求めた。いまは亡き安野光雅の画が表紙だつたからまあ、よしとしたのである(8月27日)。
…これは足りない筈だ。唐茄子とうなすのうらなり君が来てゐない。おれとうらなり君とはどう云ふ宿世すくせの因縁かしらないが、この人の顔を見て以来どうしても忘れられない。…温泉へ行くと、うらなり君が時々蒼い顔をして湯壺のなかに膨ふくれてゐる。挨拶をするとへえと恐縮して頭を下げるから気の毒になる。…おれは君子といふ言葉を書物の上で知つてるが、これは字引にあるばかりで、生きてるものではないと思つてたが、うらなり君に逢つてから始めて、やつぱり正体のある文字だと感心した位だ。(第6章)
このあと、結婚相手を赤シャツに鞍替くらがへした「不慥ふたしかな女」のマドンナに捨てられた、この英語教師の古賀先生をめぐつて、「気の毒」が七回も出てくる。「うらなりの唐茄子」についても、可笑しい記述があつて、忘れられない。
…百姓になるとあんな顔になるかと清きよに聞いてみたら、さうぢやありません、あの人はうらなりの唐茄子ばかり食べるから、蒼くふくれるんですと教へてくれた。それ以来蒼くふくれた人をみれば必ずうらなりの唐茄子を食つた酬むくひだと思ふ。この英語の教師もうらなりばかり食つてるに違ちがひない。尤もうらなりとは何の事か今以て知らない。清に聞いてみた事はあるが、清は笑つて答へなかつた。大方清も知らないんだらう。(第2章)
今回、『坊ちやん』を読むのもこれが最後と思つて読んでみたら、今までと違ふ感想をえた。以前『三四郎』論を書いたやうに、『坊ちやん』論を書いてみようか知らんと思つてゐる。論陣を張るには、それなりの勉強用意も必要だが、わたくしはたゞの読者で、文学にそも勉強なぞ必要はない。『三四郎』のつゞきの『それから』『門』においても、漱石は恋愛をテーマに小説を書いてゐる。辛気臭い『こゝろ』だつて、さうだ。『猫』はともかく、私は『坊ちやん』も恋愛小説に「深読み」することは十分可能だと、迂闊にも今頃になつて、気づいたのである。






