だれか耻を知らないか

耻は「はぢ」と読む。

むかしの本を読んでゐると、今なら一様に「恥」と書くべきところを、時どき「耻」と書いてゐる。このやうな例ためしはおほく、ふうんと勉強になる。

さいきん見付けた例には、「町」と書くべきところを「甼」と書いてゐる例があつて、これは大丸よこにある「スター食堂」に昔出町柳分店があつたころ、その旧い写真に目をこらすと、出町の「町」の字に「甼」の字を充てゝゐるので、それと知れた。かういふのもよくある。「略」と書くべきを「畧」と書く類たぐひである。背景には運筆が楽になるといふことが働いてゐるのだと思ふ。

かういふことを学校では教へない。教へる必要もないと思ふが、知らないうちに、世間の様子が変つてしまつておどろくことがある。

むかし、高校生のころ、学校帰りにアイスバーを食べながら、友達と帰つたことがある。さうしたら翌日、教師から呼び出されて、立ち喰ひしちやいけないと注意があつたぞと諭されたことがある。あゝ、チクつたのは、あの時すれ違つたあの爺だな、とピンと来たが、いつたい何がわるいと、どこ吹く風であつた。

しかし、その後、私も社会人になり、塾教師として働き出したころだった。電車内で、ペットボトルの水をゴクゴク飲む連中が増殖しだしたのである。耻ぢらふ気配はまつたくない。あゝ、高校生のころ叱られたアレは、コレかあ、と迂闊うかつにもやうやく気づいたのであつた。

この間の東大法学部でもさうであつた。授業中といふのに大胆に飲食をする学生を、渡辺浩教授は、静かに咎められた。「アメリカではふつうの光景ですが、こゝは日本ですからねえ」と。しかし、内心ではよほどご立腹であったらう。

モラルは時代と共に変る。そんなことをヌケヌケと言つた刑法学者もゐた。さうかも知れない。しかし世の中は法律だけで成り立つてなぞゐない。法律なんぞよりもつと大事な価値が世の中にはあり、私はそれを「美」だと結論づけてゐる。なにを以て「美」といふか、それはすぐ後で話す。

このあと、私は神戸大学医学部に入ったら、こゝの教官たちは名前だけ「大学教授」で、実態は「たゞのオッサン」だらけの「学府」であつた。だから、ある教官は、それでもまだかなり「大学教授」に近い部類の人であつたのだけれども、教壇に立ちながら、コップに入つた冷水ではなく、直接ペットボトルから水をゴクゴクやりだしたのである。若造ならいゝかもしれない。しかし50過ぎの男にして、これをしたのである。それが礼儀知らずであることは、年齢からして学んで来なかったはずはないのだが、イージーな世の風潮に便乗した悪ノリであらう。

あゝ、かうやつてモラルは崩壊していくのだなと嘆息した。モラルは時代と共に変るなどとしたり顔に書いてゐた刑法学者はほんたうにバカだ。しかし、どうして上記のやうなふるまひは「いけない」ことなのか。これを教へられる大人が大学教授などの中にはゐなかつたのである。

私は秋田でひょんなことから80歳すぎのおばあさんからお茶を習つた。私はこの方から、所作の手習ひのなかで、あるひとことの内にすべてをまなんだのであつた。「ふたつのことを同時にする、或は、しようとするのは美しくありません」。飲食は座つてとるもの。立つてするのは、ふたつ同時にすることです。授業は聴くものです。飲食とは別のことです。電車のなかでは静かにおとなしくしてゐるものです。個人の事情はできるだけもちこんぢやいけません。

私は以前からさうであつたが、さらにインテリへの軽蔑心を強くした。

付記)「立喰ひ」が行儀のわるいことだといふ意識は、福沢諭吉の『福翁自伝』にも、みられる。さいきん流行してゐる「立呑み」屋も、ほんらい上品な場所ではないことむろんだが、それがわかつてゐない連中が増殖してきてゐるやうで、行末があやぶまれる。

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