俗世の粉塵にまみれて生きていると、出会うこと愉快なことばかりとは限りませぬ。
そういうものにまじめに向き合って喧嘩してみても、野暮の骨頂、みのりのないことは知れています。
人生で残された時のみじかさを思えば、憂さをわすれて、官能の歓びに身をゆだねるのが一番と知れましょう。
兵法にちなんで、三十六計逃げるに如かず、といいます。
要は、…負けるが勝ち。(笑)
味覚の官能ということでいえば、三月のはじめにおとづれた、岡崎にひっそりと隠れ家のようにしてある京、静華さんの杏仁豆腐がわすれられません。
「ああ、これがほんものの杏仁豆腐なんだな」という気がしました。うつくしき女性(にょしょう)と口づけをかわしているような、ためいきがこぼれおちるのを押しとどめえない、そんななめらかさがありました。
「はああ~」
この蕩(とろ)けるようなためいきが官能の基本。
この世の憂さをわすれるのに最適の飲み物といえば、シャンパンでしょうね。
華やかなること、この上なし。
キンキンに冷えたグラスの一杯を、ひと息にぐっと呷(あお)れば、やがて陶然としてしまいます。
「はああ~」
かの幕末の黒船来航時、アメリカの饗応でシャンパンを出してもらった幕府の役人連中は、世の中にこんな美味なる酒があるのかと目を丸くして、驚嘆した由。帰りにはお土産にくれとねだったとか。
美酒を味わうには、グラスを選びます。私の好みはなんといっても、ロブマイヤー。パトリシアン(1920年)も、アンバサダー(1925年)もたいそう優美なデザインで大好きですが、一等すきなのが、ちっちゃなロータス(1856年)シリーズ。ロブマイヤーの歴史はここから始まった、といってもいいシリーズです。
取扱は、このロータスが最も神経を使います。とっても薄くて、繊細でこわれやすいからです。しかしだからこそ美的工芸品というのにふさわしい気がします。愛惜の念が自然にわいて出て、「物をたいせつにしよう」という精神を涵養するには一番のグラスかなと思います。
私はふだんはたいていビールを飲んでいます。キリンの一番搾りに、台湾産のシークアーサー果汁をまぜるビールカクテルが、私には何よりの魅惑の官能です。
もうすぐ夕食。さっそく、一杯やるとしますかね。
春の宵 煌めく酒泡や ロブマイエル 明以
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