わたくしが俳句に興味をもったのは、30歳を過ぎてから。
小学生相手の塾教師として、こどもに俳句を教える必要に迫られて、折にふれ、進んで勉強するようになった。
医学部に入り直した神戸大学時代に、六甲にある文学部の老先生や教授、大学院生、詩人、老開業医など、五、六人でなさっている句会に二度、お邪魔させてもらったこともあったが、ずっと独学である。ゆっくり、一人勝手に、時どき、やってきた。
さいきんは、おりしも、夏井いつき先生という俳句の天才教師があらわれて、俳句はけっこうなブームになっており、夏井先生の天才にはすごいものだと私も感心している。
しかし、一番だいじなことはさすがに夏井先生も言わない。…というか、言えない。というのは、俳句にせよ、和歌にせよ、単純な散文にせよ、文学でだいじなのは「詩ごゝろ」というもので、これは教えられないものだからである。
詩ごゝろ 閑居小人 平成23年11月筆
紅色のりんご 村上昭夫
紅色のりんごのことをひそかに思う
紅色のりんごのつぼみが
白い花を咲かせる頃は
何処か一方の天で
超新星が爆発するのだ
そして紅色のりんごの花が
青い実を結ぶ頃は
銀河宇宙の静かな片隅で
孤独なひとつの遊星が
運行を始めるのだ
やがて紅色のりんごの実が
うすくれないに色づくその頃には
アンドロメダやカシオペヤの大星雲の数々が
紅色の炎を吹き上げるのだろう
イギリスの大科学者ニュートンが、リンゴが樹から落ちるのを見て、万有引力の法則を発見したというのは、有名な話です。りんごがニュートンの頭上に落ちたために、神さまの声を聞き、ひらめいたのだという話さえあります。これは作り話であるという説が今では当然視されていますが、たとえ作り話だったにせよ、この話が広く世に受け入れられた背景には、すべてのものはすべてにつながっているという実感が、ふだんは余り意識しないにせよ、われわれ一人びとりにあるからではないでしょうか。
この世に存在するあらゆるものが、目には見えない力で結びつけられている。みなさんの中には、ビデオなどでご覧になった人があるかも知れませんが、アメリカ映画の『スター・ウォーズ』(1977年)では、そうした力を「フォース(理力)」と呼んでいました。
こんなことを言うと、そんな話は映画の中でだけ通用する夢物語にすぎないと一笑に付する人があるかも知れません。しかし、人類の知的な営みは、この世にものがそもそも存在することの不思議、そしてものとものとの間には何かふしぎな関係があるのではないかという予感、ついでそれを是が非でも突きとめんとする冒険精神に始まっているのです。
日本の科学者、寺田寅彦は、ある文章の中でこんなことを言っています。
宇宙の秘密が知りたくなった。と思うと、いつのまにか自分の手は一塊の土くれをつかんでいた。そうして、ふたつの眼がじいっとそれを見つめていた。
すると、土くれの分子の中から星雲が生れ、その中から星と太陽とが生れ、アミーバと三葉虫とアダムとイヴとが生れ、それからこの自分が生れて来るのをまざまざと見た。
…そうして自分は科学者になった。
ここには、ものとものとをつなぐ不思議な関係に対するすなおな感嘆があります。元来、科学者とか哲学者とかいわれる人たちは、このような素朴なきもちを、その学問の出発点に置いているものです。しかるに、現代では、この初心を忘れた科学者が多くなったと慨嘆する人もあります。
僕は思うんだけどね、アフリカのサヴァンナをさ迷っていた人類の祖先が、ふと空を見上げて「不思議だなあ」と感じた時があるんじゃないかと。「空の果てや地の果てには何があるんだろう。何で自分たちは、こんなところで餌を求めながら歩いているんだろう」とね。僕はその不思議の気持ってのが哲学の根本だと思うんだ。つまり哲学はコスモロジーであると。
タレスとか、アナクシマンドロスとか、ゼノンとか、デモクリトスとか、ソクラテス以前の古いギリシャの哲学者たちには、この不思議さへの感覚が感じられるんだ。日本の哲学者たちはどうも、コスモロジーへの関心が乏しくて…。
(長尾龍一『神と国家と人間と』)
もし、この感慨が正しいとするならば、現代、はるか彼方の大宇宙(マクロコスモス)と身近な小宇宙(ミクロコスモス)とを結ぶ「ふしぎな」照応に思いをはせるのは、詩人の領分になっているのかも知れません。一即一切、じつに寺田寅彦は、先の文章を次のように結んでいるのです。
しばらくすると、今度は、なんだか急に唄いたくなって来た。
と思うと、知らぬ間に自分の咽頭のどから、ひとりでに大きな声が出て来た。
その声が自分の耳にはいったと思うと、すぐに、自然に次の声が出て来た。
声が声を呼び、句が句を誘うた。
そうして、行く雲は軒ばに止まり、山と水とは音をひそめた。
…そうして自分は詩人になった。
(寺田寅彦『柿の種』)
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