美的官能療法…。
チョット刺戟的なタイトルをつけてみました。
おそらくこの半年ほど、小医がすくなからぬ来院者にお勧めして、来院者からも評判の好い書籍があります。それが武田友紀著『「繊細さん」の本』(飛鳥新社、2018年)。
ご近所の大丸百貨店にいけば7階の本屋さんに置いてありますときまって来院者にお伝えするので、それもあってか、京都大丸ふたば書房ではずっと平積みされているロングセラーになっています。
この本にはポイントがいろいろあるのですが、「じぶん」に気づこう! というのがこの本の大きなメッセージになっています。なにごとも感じやすい「繊細さん」は優しすぎて、善人すぎて、良心的すぎて、万事自他の違い、その線引きをあいまいにしがち。イヤな人や物事に対してまで、とことんまで我慢してしまいます。しかしそれがくるしみの元になっているので、少しづつ、「じぶんの輪郭」をハッキリさせていこう! 自他のちがいをシッカリ自覚していこう、そうしてラクになろうと訴えている本だと思います。具体的には、じぶんの好き・嫌いをハッキリさせようというものです。「ほんとうの」自分、「ホンネの」自分を思い切って外に出す方が(そして、そうすることは全然「悪」ではない)、じぶんと「合う」人が周りに集まって、「合わない」人とは遠ざかって、事態は好転していきますよ、とお勧めしています。また、じぶんが直感的に「イヤ!」と思うことや無神経な人には近づかない! ということも同じくらい大切です、というのです。
…これはねえ、じつは、お茶人(数寄人、趣味人)が経てきた美的修行とたいへん似ていると小医は思うのですね。「じぶんの数寄をみがく」というのです。
日本では、とかく「出る杭は打たれる」と謙譲の美学というのでしょうか、「じぶん」を出すというのは「開き直る」という言葉が常に批難のニュアンスを伴って語られるように、とにかく「悪い」こととされている、と思います。しかしねえ、「じぶん」を出しちゃっていいんですよ、思いっきり出しなさい、じぶんの「好み」をもろに出していいんですよ、という世界が日本文化にも、ちゃんと用意されていたんですよ。それがお茶の世界。ぜんぶ「○○ごのみ」ということで許されています(○○には利休、遠州、太閤、不昧公など、いろいろ入る)。俗衆に合せないといけない理由なんて、さらさらありゃしない、という「開き直り」全開の世界です。茶道を作法の習い事だと勘違いしている人は多いと思いますが、茶の湯とは美的趣味を堪能し、美をとことんまで追求する世界のことなんです。
和の世界というのは、お茶以外でも、存外わがままな、自由な世界なんです。
美しいキモノもそうですよ。いまの日本人はみんな着物を着なくなってしまって、この「わがまま」「自己本位」という「贅沢の味」をおぼえる機会を無理やりにか自ら進んでか奪われてしまった、かわいそうな民族と小医は考えています。
昔の日本女性はふんわりとして弱弱しげでいながらしっかりとした芯をもっていた、というのは「神話」と片づけられない要素があると思います。なぜなら着物をあつらえる、着る行為は、じぶんの「数寄をみがく」「おのれを知る」ということと不可分にあるからです。論より証拠、『毎日、きもの』(講談社、2017年)という本を書いた河村公美さんに語ってもらいましょう(同書36頁、32頁、30頁)。これは多くの着物ファンが、すくなくとも小医は自己の経験上、百パーセント正しいと考えていることです。
きもの選びは「私は誰か」をひもといていく作業のような気がします。私はどんな人間かな? 肌の色は? 性格は? 何が好き? 今ここで着るべきものは? どんな気分? 着たいものは? そうして自分と向き合っていく。
買うことも、着ることも、着続けることも、「私は誰か」を問いかけながら進んでいけば、本当に必要なものだけを選ぶようになり、…
きもののおかげで、私は自分の意思をはっきりもてるようになりました。優柔不断でなかなか「NO」といえないタイプだったのですが、自分の好きを極めたいと思うきものの世界では、「これは私に合う、合わない」ときっぱり思えるのです。
「繊細さん」は、だいたいが美的感性が鋭い方だと小医は感じています。美醜がわかるということは厳しいセンスがあることを前提にしていますが、俗世間はそのセンスを無神経にふみつけにするので、「繊細さん」は生きづらい局面にしばしば追い込まれてしまうのだと思います。
着物がすきな人はなぜ、着物を着ているのでしょうか? みなさん、それを考えたことがありますか? これが今回のエッセイの眼目なのですが、理由は、たんじゅんに「きもちがいい」からなんです。俗世間の「常識」は、着物は「着るのがたいへん」「不便」だとか「経済的でない」とか「前時代的」とか、無神経きわまることしか口にしませんが、かわいそうなことだと思います。しかし、着物には洋服にはない、どくとくの快楽があるのです。カラダに「きもちのいい」ことは、ココロにもよろこびを必ずあたえるものでしょう。美意識と同様に、みづからが感じる官能性も、けっして粗略にしてはいけないものです。
子育てなどで精神的につらいときも、きものに癒されました。「こんな調子で行ったら、着物教室の空気を乱すかな」という気分の日も、晴れやかになって帰ってこられるのです。
疲れたときに着ると気持ちがすっきりしたり、きもの仲間が集まる場所に行くと、「何か悩んでいたっけ?」とリセットできたりする。きものには、そんなセラピー効果もあると体験的に思っています。
美と官能性にかんする自己の感覚をけっして譲らない。「じぶんらしく」楽にいきる方法は、お茶やきものなど、理窟ではない、「まづは体験してみて」という和の世界からまなぶことがたくさんあると思います。
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