病気の説明・各論14 アルツハイマー病
3 貝原益軒先生にまなぶ心の養生
老年痴呆になる原因疾患には、脳卒中(脳血管障害)などもありますが、8-9割くらいの大多数を占めるのが、アルツハイマー病なので、せけんでいう「認知症(老年痴呆)」とは、アルツハイマー病のことだと理解しておけばいいでしょう。
アルツハイマー病と診断されても、しょげる必要はありません。
いまは薬を飲めとか言いますが、おだやかに呆けていく人は昔からいくらでもいたのですから、必ずしも薬を飲む必要はないのではないかと私は思います。「純粋痴呆」といいます。純粋痴呆のひとは、性格がおだやかにできている、いい人だと思います。だからこそ、みまもる家族のささえも、厚いばあいが多いのだと思います。
にんげん、知性が衰えると、理性のささえを失って、感情的に不安定になりやすいものです。もともと性格的にふあんに弱い人もあるでしょう。アルツハイマー病で、徘徊やら、夜間不穏やら、興奮やら、暴力やら、いわゆる「問題行動」を起こすというのは、そういう理窟です。
必ずしも、ぜんぶが全部というわけではないと思いますが、純粋痴呆のひとと比べて、人間ができていないから、そうなるのではないかと私は疑っています。それに見合って、みまもるべき家族のささえが弱い人たちが多いように感じています。因果応報。子どもに愛情をかけなかったり、嫁さんをいびり倒してきた、じいさんばあさんは、ぼけたときに、必ず報いを受けているように思います。
投薬(メマリーや抑肝散)で、ウソのように、おさまる人も、勿論、います。
しかし、そうでない人が、はっきり言えば悪いけど、一定数、実在しています。私はひそかに「性格老人」となづけています。
注 この点について小医はじぶんの臨床経験に基づいて長期にわたり考えてきたが、痴呆となってから問題行動を起こす人に、負けず嫌いの人、他人に対する言葉がキツイ人、末っ子などで親から甘やかされきって育った人が多いことから、ADHDなどの発達特性が隠れている可能性が高いのではないかと最近は想到するに至っている。
コウみると、こころの健康のためには、老年にいたるまで、長いじかんをかけた、ふだんからの、人間修養というものが、必要ではないかと思われてくるのです。
江戸時代の医者に、貝原益軒(1630―1714)先生という人がいます。江戸時代より現代までつづくロングセラー『養生訓』(1713年)の著者として、いまなお、ゆうめいです。満83歳の時に書きました。
アルツハイマー病やがんを予防する方法は、今なお、はっきり分っていないことが多いので、サプリメントがどうやらと、こざかしい健康商品などに踊らされるのは、愚なことだと思います。
医学は、医者や製薬会社がいうほどには、さほど進歩しているわけでもなさそうなので、江戸のちえに耳をかたむけても、あながち損というわけではないでしょう。
『養生訓』を読んでみて、感心するのは、からだの健康だけを説いているのではないことです。腹は八分目をこころがけよ、酒はのみすぎると中風(脳卒中)になるから微酔(ほろよい)にとどめるが良い、食ってすぐに横になったらいかん、たえず体は動かして働け、なまけるな、色慾も慎んでこそ正解であると、うるさいお小言のほかに、こころの健康をも熱心に説いているのです。
ひとことでいえば、「こころ穏やかに、楽しんで暮せ」というのです。あたりまえのことかも知れませんが、だいじなことだと思います。
同時期に書かれた『楽訓』という本の内容も併せて、私なりの大意を以下に述べます。
世間に生きていると、不平不満や、ねたみそねみ、腹立たしくなったり、かなしくなったり、情けなくなったりすることも多いが、それに振り回されて生きるのでは、じぶんの人生がもったいない。
私なりに解釈すると、これは、つまらぬテレビや新聞などは見るなという教えのように聞こえます。私は、新聞もとっておりませんし、テレビも家にありません。みると、たいそう腹が立つからです。
それよりも、せけんなぞ忘れて、じぶんだけのために、一日いちにち、楽しんで、たいせつに生きようではないか。そのためには、慾をひかえた高尚なこころもちが普段から大切である。
きちんと片づけられた部屋で、心しずかに読書を楽しもう。部屋にはお香のひとつもたきましょう。四季のうつろい、花鳥風月を愛でましょう。旅にでて、美しい風景にもふれましょう。その思い出はのちのちの大切な財産になるでしょう。詩歌管弦のしゅみもあると人生に色どりが出ます。お酒もほろよい位なら、それに花を添えるでしょう。気の合った友人との交遊を大いに楽しみましょう。
人生はまことに短く、老いるとさらに短く感じるもの。一日を十日、一ヶ月を一年と考えて暮しましょう。さすれば、ますます、じぶんの楽しみがいちばんで、他のことにムダにかかずり合っているよゆうはなくなるでしょう。
ひとつ注意があって、ひとはいつか死ぬという理(ことわり)を忘れ、いつまでも生きていようと慾深な気持から晩節をけがす人がすくなくない。これはじつにみっともないことである。人生のおわりがぶざまだと、それまでの立派な人生も台無しになってしまう。きっとこころがけるように致しましょう。
「晩節をけがさない」
これは現代の日本においても、ますます大切さを失わないこころがけといえます。老齢のひとびとの、情けなく、かなしいご臨終を、いくつか見てきた経験から、ほんとうにそう思います。
死ぬことは、けっしてかなしいことではありません。つぎに生れてくる赤ちゃんのために、席をゆずる、りっぱなつとめです(モンテーニュ)。最後までじぶんの椅子をおさなごにゆずろうとしないで、しがみつくのは醜いことです。いまの時代、このことを、忘れ過ぎています。新聞やテレビは、器量の狭い人びとからのおろかな非難を恐れて、おべんちゃらをいいすぎです。
参考文献
1 小坂憲司、田邉敬貴『トーク認知症 臨床と病理』(医学書院、2007年)
2 松田実「認知症支援における医療の役割―あくまでも症候学にこだわる立場から―」老年精神医学雑誌22巻増刊号Ⅰ、126頁、2011年
3 大井玄『「痴呆老人」は何を見ているか』(新潮新書、2008年)
4 貝原益軒『養生訓・和俗童子訓』(岩波文庫)
5 久坂部洋『日本人の死に時 そんなに長生きしたいですか』(幻冬舎新書、2007年)
4 アロイス・アルツハイマー小伝
栄えある王国第一公証人を父として、1864年6月14日、ヴュルツブルクに、ドイツでは少数派のカソリック教徒として、生を享ける。彼の人生における活動領域は、ためにプロテスタントが支配的な北部ではなく、カソリックが比較的多い南独を中心としているように思われる。
ヴュルツブルクは、X線の発見で第1回ノーベル物理学賞を受けた、ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン博士で有名な大学町である。ここはプロテスタントの町であったので、アロイスは、1874年から、カソリックの隣町、アッシャフェンブルクにある9年制のギムナジウムで教育をうける。
伯父はカソリック司祭であり、アルツハイマー家は、代々、文科系の職についていたが、アロイスは自然科学に秀でていたので、一族では初めて、医者の道にすすんだ。最初、国際的な令名高い、偉大なる病理学者ルドルフ・ウィルヒョウや、結核菌を発見したことで世界を驚嘆させた細菌学者ロベルト・コッホがいる帝都ベルリンのフリードリッヒ・ヴィルヘルム大学医学部にすすむ。
ドイツでは、職人、学者とも、若き日に修行のためには各地を遍歴する伝統がある。しかし、北のベルリンはすぐに去って、2年目からはヴュルツブルク大学、4年目からはチュービンゲン大学、5年目からは再びヴュルツベルク大学に戻って、1888年、最優秀の成績で、医師国家試験免許を取得した。
アロイスが最も親しんだのは、顕微鏡を覗く組織学者のアルベルト・フォン・ケリカー教授で、「顕微鏡をかかえた精神科医」の基礎はここで築かれた。前年に医学博士の学位を取ったアロイスの博士論文は、ケリカー教授の指導のもと、顕微鏡を使って、耳垢腺を精密に観察し、研究したものであった。
アロイスは身長180センチ、鼻眼鏡をかけ、堂々とした恰幅のある若者で、血気盛んでもあったから、学生時代は、勉強ばかりでなく、学生組合にも所属し、その荒っぽい伝統にしたがい、名誉ある決闘も経験している。アロイスの写真はたいてい右側からのものだが、それは、左頬に決闘で受けた深手の傷痕が残っていたからである。
アロイスは、医師免許を取得後、いまは『ぼうぼうあたま』というブラック・ユーモアな笑いにみちた童話を書いた児童文学者として著名な精神科医、ハインリッヒ・ホフマンがはじめたフランクフルト市立精神病・てんかん病院に採用され、臨床医のキャリアを開始する。翌年、神経組織学者として有名なフランツ・ニッスルもここに赴任、顕微鏡ずき同士、意気投合、終生にわたる友情をむすぶ。院長エミール・シオリ、ニッスル、アルツハイマーの三人で、患者の治療、研究、学会発表と充実した日々を送った。
アロイスは、1895年、宝石業者の未亡人で、裕福なユダヤ人女性と結婚する。爾来、アロイスは、金銭の心配を一切することなく、研究に専念できるようになった。その生活ぶりも、つねに趣味のいい贅沢品にかこまれ、裕福(ブルジョワ)そのものであった。夫妻ともに他人に気前よく、手厚くもてなすことをこのんで、陽気で快活、親しみぶかい人がらであった。惜しみなくお金を使って、「節約」という文字は、夫妻の辞書にはなかったようである。アロイスのトレードマークは、つねに手から離さない葉巻で、とりわけ上等なものを好んだ。
夫妻の間には、一男二女あり、アロイスは子煩悩で、動物をたくさん飼って、こどもたちを喜ばせた。息子とは虫取りによく出かけたものらしい。しかし、1901年2月、妻が病気で世を去った。アロイスはその後再婚をしていない。アロイスは以前にも増して、休みなく研究に打ち込むようになった。
そうして出会った最初のアルツハイマー病症例が、その年の11月である。その51歳の女性は夫に対する嫉妬妄想で発病し、1906年4月、56歳で亡くなった。1903年、15年間の長きにわたり勤務したフランクフルト市立精神病院を惜しまれつつ辞職、ドイツ精神医学の「法王」エミール・クレペリンの招聘を受け、ミュンヘン王立精神病院へと移った。翌年、美麗精密な手書き図版を多数付した論文を提出して、大学教授資格を取得。昔の医者の芸術的センスは、それは大したものだったのである。
日本では大学教授など、吹けば飛ぶような存在だが、当時のドイツにおいて「大学教授」の社会的地位と権威は、なみなみならぬものがあったと聞く。アロイスは面倒見のよい教師で、かれの下には世界中から、若き俊英が留学してきた。当時、ドイツの医学研究は世界最先端であり(世界に冠たるドイツ)、顕微鏡を使った組織学的・病理学的研究は、花形分野であったからである。
週末に子どもたちと湖畔の別荘で楽しいひとときを楽しむ他は、アロイスは研究一筋に没頭、1908年末までには、初老期発症のアルツハイマー病(老年痴呆の最重症型)の4症例をまとめ、その成果は、上司クレペリンの権威ある精神医学教科書の改訂版に「アルツハイマー病」と命名されることで結実する(1910年)。もっとも、アロイス自身は、これが「老年痴呆」とどれほど異なるものか、懐疑的でもあった。
1912年、ついに、アロイスは、ブレスラウ大学医学部の正教授に就任するが、それまでのあまりの多忙と激務による過労から、リウマチ熱を急性発症、後遺症として、心臓を病むことになった。彼は病をおして、教授職に精励、しかし、それは彼の命を縮めることになった。
翌年、温泉保養地ヴィースバーデンに療養するも、健康は恢復しなかった。1915年10月からは寝たきりになり、12月19日永眠。アロイスの子どもたちは、三人とも、二つの大戦を生き抜き、長寿を全うした。
参考文献
1 長谷川康博「アルツハイマーの生家を訪れて」日本医事新報4093号49頁2002年
2 コンラート・マウラー、ウルリケ・マウラー著、喜多内・オルブリッヒゆみ、羽田・クノーブラオホ真澄訳、新井公人監訳『アルツハイマー その生涯とアルツハイマー病発見の軌跡』(保健同人社、2004年)
5 益軒先生について
貝原益軒先生は、博学にして、風流な人となりでしられる。名は篤信。益軒は晩年の号。長く27歳から78歳までは、損軒と号した。
存命中よりその名は世に高く、京都では公家衆からも尊敬され、また、その文章がわかりやすく、平易、流麗なことから、貝原先生が書いたというだけで、その本が売れるほど、ひろく庶民のあいだにも多くのファンをもった。益軒先生のおもな著書は、博学というだけでなく、その要点をまとめた「提要」ないし「総論」が、著書の冒頭にあるところが特徴で、これは当時の書物では、例のないこととされる。
なお、その文章の平易明快さは、はるか後年、明治にはいり、聖書を翻訳するにあたって、模範文とされたといわれる。
益軒先生は、寛永7年(1630年)、九州は博多、福岡城のうまれ。藩主は、黒田家。官兵衛(如水)は、秀吉もおそれた切れ者。貝原家は、益軒先生の祖父から、黒田家に仕え始めた。官兵衛の息子、初代藩主長政は、関ヶ原の戦で大活躍し、福岡藩52万石の大名となった。益軒先生がうまれたとき、藩主は二代忠之となっていたが、これは暗愚で、益軒先生は、三代光之の時まで、田舎ぐらしを余儀なくされたり、禄を失うなど、理不尽な目に遭い、たいへんに苦労している。
益軒先生は、幼時より聡明で、ひとりで字をおぼえ、なかでも算術を得意とした。相撲など、あらっぽいことは終生大きらいであった。近所のガキとも余り遊ばなかったようである。みぎにしるした次第で、27歳で光之に仕えるようになるまでは、生活のため、父や兄から、医学と本草学(薬学)のてほどきを受け、長崎に三度修業に出るなどして、主に医者として、生計をたてる途をさぐった。
しかし、このわかいときの勉強が、益軒先生の博学の基礎となったと考えられる。一般に、この時代の学者は、四書五経など、政治や道徳、歴史、つまり人間の世の中のことばかり、孔子や孟子の本を読んで、ぎろんしていたが、これら儒者は、たいてい、いわば現代でいう文系人間で、数学や医学、天文学、植物学、農業など、書物をはなれた、事実を重視する自然科学や実験にもとづく知恵、つまり理系の知識はまるでないのであったが、益軒先生のえらいところは、文理双方を兼ねたところである。
この時代、日本の儒者は、伊藤仁斎や荻生徂徠など、朱子学を批判することばかりにちからこぶを入れ、世の中に理のあることを疑いがちであったが、それは、理系の勉強をせず(仁斎は、えらい儒者が下等な医者を兼ねることをきらい、博学は儒者のしごとではない、と言った)、さだめなき人間の世界を中心によのなかをみるからそうなるので、広く自然の物を実地に見る限り、そこに一定の法則あることは疑いなく、益軒先生や、幕政に参与して、ありとあらゆる現実問題を考えさせられる立場にあった新井白石などは、終生、現実と格闘して、理を追求する朱子学者でありつづけた。この「格物窮理」(物について、その理をきわめる)の精神が、のち、蘭学の発展に受け継がれていると思われる。
27歳で、三代藩主光之に迎えられてから、益軒先生は、医者というよりは、専らお儒者として、学問を以て黒田藩に仕えるようになる。引き立ててくれたのは、黒田藩の有力家臣、立花家で、千利休のおしえを記したという『南方録』を探し当てた教養人、立花実山は、益軒先生から学問をまなんだ。
ちなみに、この『南方録』は、爾来、茶道の聖典とされてきたが、じつは、実山が創作したもので、偽書である。京都大徳寺の大亀和尚は、おなじ堺出身ということから、むやみに利休を尊敬し、この『南方録』の記述をうのみにしているが、実証的には疑わしい話ばかりである。茶の湯など、その時代時代で、創意工夫して、もっと自由に楽しんでよいはずである。
益軒先生は旅を愛した。生涯で、藩主の参勤交代のお供に、江戸へは12度、遊学のために、京都へは24度でかけ、そのついでに日本各所をめぐって、由来や名産、風景、動植物、地理などを、くわしく調べている。自然の美を愛した。多くの紀行文を書き、夫婦で有馬温泉にも逗留している。とりわけ京都は、28歳から35歳まで学問修業した地で、だいすきだったようだ。
益軒先生は晩婚だった。39歳で22歳年下の女性と結婚した。奥さんは楷書の名手であった。
愛妻家で、京都で公家衆から古楽をまなぶと、夫婦で、琵琶や筝を合奏している。夫婦のあいだに子は、ついにできなかった。奥さんが正徳3年(1713年)の末、病没すると、一年もたたず、老衰がすすみ、後追いしている(享年85歳)。
なお、貝原家は、養子をむかえて、今に至り、現在の貝原家当主は、博多の地で、整形外科医院を開業なさっているという。
益軒先生は、農業、草花に関心があり、若き日から晩年まで交流の深かった宮崎安貞の『農業全書』(水戸光圀公が絶賛したということでも有名)完成に協力したり、本草学の大著『大和本草』を書いたりしている。
人がらはひかえめで、よほどのことがなければ、異をたてないことを信条としたようだ。著書は、だから、豊富な読書から得た漢籍、和歌など、古典からの引用に満ち満ちている。すでに書かれた名文があるのなら、あえて自らへたな文章をこさえて書くまでもないという判断である。
がくもんにおいては、自由な議論を重要視して、徒党をくむのをきらった。じぶんに師はなく、弟子もとらないというのが、益軒先生の生き方だった。伊藤仁斎の学問については、仁斎とその弟子たちだけで通じる身内のぎろんであって、学問ではないと批判している。大儒仁斎への崇拝は、現在でも、文科系では長く続いているが、私ごとながら、法学も医学も両方まなんだ身にあっては、益軒先生のこの批判は、じつに正鵠(せいこく)を射ている様におもわれてならない。いわゆる文科系の人からみれば広いとみえるかも知れない仁斎のがくもんなど、益軒先生のたちばからみれば、まだまだ、せまいのである。
益軒先生の交遊関係は、だから、儒学と医学ないし本草学を兼ねる博学の人が多かったようだ。また、趣味の高雅な人たちでもあった由。益軒先生は、その『楽訓』や『養生訓』で、老いてからの生活の理想の境地を語っているが、それは、大要、つぎのような生活である。
質素ではあるが、凛(りん)として、品のあるくらし。部屋はきれいに整頓され、お香もたいてある。文机に坐って静かに書をよみ、ときに楽器を演奏してたのしむ。庭に咲く草花や鳥といった自然をいつくしみ、四季のうつろいに感じる。お酒やお茶は、これら閑静な、趣味ある生活には、格好の友である。夫婦友人、親しい人のあいだがらを大事にして、こころゆたかに暮す。
これは、中国の詩人、陶淵明が理想とした境地であり、また、中世からつづく日本のわび茶人が理想とする境地でもあろう。養生術とは、けっきょく、ふだんのくらしの中に美をもとめる風流な生き方にゆきつくか、と思われる。
参考文献
1 井上忠『貝原益軒』(人物叢書 吉川弘文館)
2 横山俊夫編『貝原益軒 天地和楽の文明学』(平凡社、1995年)
3 山崎光夫『老いてますます楽し 貝原益軒の極意』(新潮新書、2008年)
4 田尻祐一郎『江戸の思想史』(中公新書、2011年)
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