病気の説明 15

病気の説明・各論11

自閉スペクトラム・注意欠陥多動症 (AS/ADHD) 2

5 診断の方法 実践編(つづき)

(承前)

上にのべた「良識の堅持」という点で、面白い診断法が、ひとつある。スナップ・ダイアグノーシス(一発診断)といってよいほど、貴重な所見の一つではないかと小医は考えている。それは、受診者が、両親の正確な年齢を知らないことである。親の同伴があるとき、「え?」と親が大きな驚きの声を発することがある。ついで大きな落胆を隠せない。文字通り頭を抱えてだまりこんでしまった親が、二、三ではない。

私の「良識」は、高校生以上の年齢の人間は、両親の年齢及び生年月日を正確に記憶しているものと教えている。これは受診者の親も共有しているが、子たる受診者はまるで共有していないのである。

たいてい、誕生日は覚えている。が、生年を知らぬ。「生年月日は?」と小医が尋ねても、「7月9日」とか言う。「それは月日だね。訊いているのは生年月日。生年は?」と優しく受けると、「いや~、生年は知らないんですよね~」とか呑気なことを言う。これはまだしも良い方で、甚だしきは生年月日ごと知らない。

父の生年月日はまるでしらぬくせに、母のそれは「昭和33年8月25日」と殊勝にも答えた人がいた。「なんで知ってるの? 母親はやっぱり特別なの?」と期待したらまちがいである。「ぼくはチキンラーメンが大すきで、よく食うんですけど、チキンラーメンの誕生日が母のと偶然おんなじなんすよ。それで印象に残ってて」とか平気で言う。すきなアニメキャラクターの誕生日とおんなじだったから忘れないと言う答もあった。

両親の存在は、インスタント食品や架空の人物以下の重みしかないものの如くである。きょうだいの様子を訊いても、「どうしてんすかね? たぶん会社員かなんかでしょう。特別仲が悪いというわけではないんですけど、あんまり関心ないんすよね」と、世間的見地からは甚だ疎遠、冷淡ともとれる態度が一般的である。

これには「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ」という言葉を知らぬのか、とワナワナ、怒りの念を隠せない向き(安倍政権シンパ?)もあるやもしれない。

小医が上記所見の存在に気づいたのは、受診者に書いてもらう問診票で父母きょうだいの年齢欄の記載に、「62?」とか「50だい」とか「40台後半」などとゆるい表記があるのを「オヤ?」と思って目をとめたことがきっかけであった。開業をしてようやく半年も過ぎた頃であろうか。私もぼんやりしていたものである。特に、年齢の数字の横に「(?)」とある記載が甚だ多い。親の年齢の数字を書いては消し、書いては消して訂正してあるものもある。上記の事実に気づいてからは、父「58」歳とか母「47」歳など、普通に表記してあっても、そぼくには信じられなくなってしまった。

そこで念のため「両親の生年月日は?」と訊くことも開始した。すると、返事が奮っている。「あちゃ~。ばれたか。実はだいたいで書いちゃってて、ほんとは正確な生れ年をしらないんですよね」と悪びれない。

驚愕。(ハイドンではない)

しかし、こういうのは、まだ可愛い方で、高学歴者や社会的エリートの中には、ごく少数だが、開き直る者がある。「同僚にも知らないのがいるし、今時、こういうのは普通ですよ」と口ごたえしてきたエリート公務員(阪大卒)があるかと思えば、弱者権力を行使して「常識がないことを自覚させられて死ぬほど傷つきました」とGoogle reviewに小医への悪評を投書し、じぶんの非常識ぶりをさらに公の目にさらした京大生まである。

いづれも「自己の社会的立場に対する世間の目や期待」など、どこ吹く風、頭の片隅にさえ存在してはおらぬものの様子である(AS)。イヤ、むだな口ごたえをしたり傷ついたりしているのは、つねづね薄々は自覚している、じぶんの社会性欠如に改めて気づかされて、動揺したりショックを受けた傷つきやすさゆえなのかもしれない(ADHD)。

念のため、くりかえすが、上記の事実のみを以て、発達特性の有無を診断しているわけではない。いい年をしてじぶんの親の年齢や生年がうろ覚え、というのは診断材料のひとつに過ぎない。しかし、単一でも、かなりインパクトのある所見とは言えよう、ということである。ここで反論の理屈をいう人間は理屈をいうほど、あやしいのであると世間はみなすということなのである。なるほど、百パーセント完璧なテストはない。発達特性をもっていると小医が診た受診者の中にも、両親の年齢や生年月日を正確に言える人もある。しかし、その数は、小医の実感としては5%にも満たないであろうと思われるほどまでに少ないのである。

上記所見について、誰か精神科医の論文なり報告があるのだろうか? まだもし上記の所見が広く精神科医に共有されていないとすると、小医には、精神科医療に固有の問題が背景に潜んでいるように思われる。

日本の精神科医療における悪癖のひとつに、医者が最初から最後まで患者を問診しないことがある。とりわけ精神科の単科病院にふるくから根ぶかくはびこっている。え、そんなことがあるの? と驚きの貴兄があるかもしれないが、精神保健福祉士(PSW)や臨床心理士(CP)、看護師さんに予診を取らせて精神科医は、平気なのである。そのあとで医者が、殿様よろしく、のそのそ出てきて「フン、フン」と予診票の文字づらだけ眺めて、診断をつける。無責任医療のきわみではないかとかねがね私は憎んでいる。精神科医となった最初から私はこの悪慣行をにがにがしく思って、全部自分ひとりで取っている。上記所見の発見は、内科診療の基本を守って横着をしない臨床プラクティスの賜物だと自負している。

上記所見の意味について、小医は当初は堅苦しく受診者の「社会性欠如」とみていた。視野を家族内に限れば、とくだん親の生年を知らずとも、生活上の不便を感じることはない。広く社会からみた視野が欠如しているから、親の生年月日を覚えようとしないのだと。しかし、最近は、たんに「幼稚だから」とたんじゅんに考えている。おそらくそれが発達特性者の理解のためには、実は含蓄ぶかく、本質的な解釈と思われる。当り前のことではあるが、「勉強ができること」「大学を出ていること」などは必ずしも人物の社会性、人格性までは保証しないのである。むろん、多くの場合、学歴は人物を保証するのだが、学歴と人格、社会性ないし生活能力にアンバランスがあるのなら、その人は「おとなになり切れていない」のである。それを窺う一兆として、上記所見の意味があると小医は位置づけている。

しかし、それは本人のたちばに立ってみると酷な評価なのかも知れない。ADHDは頭に情報を入れたしりから、とかく忘れてしまいがちな人なのである。寛大に見てあげないといけないのかもしれない。耳から入った情報がとにかく抜けていきやすい特性を知るには面白いテストがあるので、それは後述する。これは受診者との診察をくりかえすうち、小医が偶然ピン! と勘づいて始めたテストなのだが、とにかく興味ぶかいテストである。

問診表の記載から取れる所見には、まだまだある。弊院では問診表の表に学歴欄・職歴欄がある。たいていの人がそれを埋めるが、いっさい書こうとしない人がある。めんどうなのであろう。ADHDと見なしている。或はプライバシーを明かしたくないということだろうか? 生活背景を知らずに医者が診察できるとでも自分に都合よく解釈しているのだろう。ASと見なしている。「うつ」状態がひどくて書けないということであろうか? しかし街中のクリニックでそこまで重症な人はそもそも受診できないので、ニセ「うつ」と相場はきまっている。ADHD/ASと見なしている。

「うつ」のため体が「鉛のように重くなって動けない」とかいいつつ、チャント二本の足で歩いて受診しに来ている。簡単にこころは折れても足はそうそう折れないものなのである。そしてその「うつ」とやらには、探れば、必ず明確な直接原因が潜んでいる。「原因」を本人はわからないとか最初はいうが(AS)、医者が「どうしたの、ボク?」「お嬢ちゃん、どうしたのかな?」という感じで、子どもを相手にするがごとく、優しく聞いていけば、必ず原因を探り当てることができる。このような幼稚な抑うつ反応は「ADHD/AS抑うつ反応」と正しく呼ばれるべきものである。

弊院問診表の下欄には「裏面もございますので忘れずご記入ください」と明記し、注意を喚起するために、赤線まで引くようにしているのに、それでも裏面の記入を忘れる人が少なくない。小医に「書いてないよ」と指摘されて初めて気づく人がある。これもADHDとみなしてよい所見である(不注意)。

サテ、問診表の裏に父母きょうだい配偶者こどもの年齢記載欄のほか、職業記載欄があるのだが、この職業記載欄の記入ひとつで特性が明らかになることもある。たとえば「バス運転手」と書けばいいところを「運送業」と書いたりする。理屈としては「人を運ぶ」ので、それでいいのかも知れないが、ここで大事なことは理屈ではないので(大事なのは社会性)、「運送業」という文字づらから常識的に聯想するのは「トラック運転手」が普通だとすれば、ここには「びみょうなおかしさ」があるということになる。

発達特性の診察では、「この種のびみょうさ」へのするどい嗅覚ともいうべき、精神科医ならではの「専門的勘」が重要なので、くりかえしになるが、私はDSM流の粗大な「診断基準」に徹頭徹尾反対するのである。

婚約者として恋人に、きちんと栄養学を学んだ上で食事をつくることを職業として「個人事業主」と書く奇異さは明らかであろうが、母の職業欄に「接客業」とあると、これはどうだろうか? びみょうな問題を含んでいる、と精神科医に固有のせんさいな神経の持主ならばそう思うであろう。ふつうに「スーパーパート」「化粧品販売」「飲食店勤務」などと書けばいいところを、上記のように書けばかえって「水商売」かと見る人を誤解させてしまうのではないかという危惧は受診者にまったく働いていない。たかがアイスクリーム屋でバイトしているだけなのに、それを大げさに「物販」と書いたり、父の職業は「NTT勤務」と普通に書けばいいところを稚拙にも「インフラ関係」と書いたりしている「所見」を、ゆめおろそかにしてはいけない。精神科の専門医であるならば、スルーせず、厳しく見咎める必要がある。(なお、私は「精神科専門医」ではない。臨床能力を試さず、ペーパーテストだけで取れるような「専門性」に何の価値がある? あほらしくて、これからも資格をとるつもりは断じてない)

両親および受診者の学歴・職業は、発達特性の有無を知るうえで、必須の情報である。それは必ずや何かを語っており、何かを指し示している。

中学・高校であれば進学校の生徒であること。進学校卒業の学歴があること。一流大学の学生であること。一流大学卒業の学歴があること。大学院生であること。院卒の学歴があること。これらの事実があれば、それだけで「発達特性はないか?」必ず一度は疑うべきである。両親ないし受診者本人の職業が、保育士・幼稚園教諭・小中高大の教師であれば、官公庁に勤める公務員であれば、システム・エンジニアなどコンピュータ関連職であれば、美術デザイン工芸写真服飾などアート関係者であれば、医師・薬剤師・法律家・会計税務経理銀行・料理人・看護師などの専門職であれば、中小企業社長など自営業であれば、水商売のしごとをしておれば、同じく「発達特性はないか?」かならず一度は疑うべきである。

もちろん、他は疑わなくてよいということではない。しかし上記は診察中に疑診してよい大きな指標のひとつだという意味である。

「頭がよい」のはAS特性の最たる指標である。数学者や哲学者に変人が多いのはAS特性があるからである。「奉仕の精神」はADHDとASの双方にある特性である。ADHDは「お人よし」である。一例に料理人を挙げれば、料理人は、じぶんが食べずに他人にせっかくじぶんの作ったおいしい料理を出して食べさせてあげるのだから究極のおひとよしだとは、小医の持ちネタのひとつで、これを患者に話すとみなさん、よくお笑いなさる。むろん、よい料理を実現するには技術を要し、その点は完璧を期すAS特性も、料理人は併せ持っている。五感の研ぎ澄まされた感覚もAS由来のものである。しかし勘定はいいかげんな人もあり、その点はADHDである。ASは「義務の人」である。「世の中、コウでなくっちゃウソだろう」という一念から公のために尽くす。上記に挙げた職業は「じぶんを措いて他人の世話を焼く」という意味合いのものが殆どであることに気づいていただきたい。コンピュータ関係や経理関係はキッチリ主義のAS特性が強いであろう。アートについては、ADHDとASの両者で共通する強い趣味嗜好である。「美」には世俗の社会的地位をなんぼのものかと破壊する「自由」の力があるからである。その究極の姿のひとつに「ダンディズム」がある。「美」のちからで、徒党を組まずひとりで、世の「良識」を挑発する。発達特性者は、生きるのが本来へたな人である。特殊技能で生きる人である。現代社会が基本的に「知識」を求める社会なので、社会の要求に合致している限りで、堅気に「教師」や「公務員」の職を全うしているが、「先生とよばれるほどの馬鹿でなし」「すまじきものは宮仕へ」、制度組織がほんらいは不向きな人である。「自由」の水におよぐ人である。ADHDの元気にあふれている人は、浮沈をものともせず、アイデアひとつ、自営でもうけたり、度胸と愛嬌、水商売で大成功したりする。上記職業には、それなりに意味と特性関連性があると思われる。ここに書いた小医の理屈はあとづけである。受診患者の問診をするなかで上記職業がデータとして選択的に集積されてきた事実が先であることを強調しておく。

発達特性者の父母について、比較的少数が仲良き夫婦に過ぎず、多くは離婚しているか別居している。同居していても不仲であることが多い。父がADHD系ならば、たいてい行方知れずか、こどもに無責任な人生を送っている。母がそうであることも少なくない。父が無口でおとなしいAS系で母がズケズケうるさいADHD系、父に性格偏倚や感情易変性ありAS/ADHD系で母が受動的でおとなしい天然タイプ或は生活能力とぼしく自信なさげなAS/ADHD系という場合が多い。親子間には、たいていの場合、お互いの相性の悪さからくる根ぶかい葛藤が存在している。せんさいな心情をもった心根の優しい娘や息子は、感情的でデリカシーのない父母からことごとく痛めつけられているから、哀れである。

遺伝負因(家族歴)の確認は、当然のことながら、重要である。祖父母の人がらの話や、本人・きょうだいの配偶者の話(発達特性者は発達特性者どうしで結びつきやすい)、本人・きょうだいの子どもの話から疑いが強まることが少なくない。本人・きょうだいの子どもの話とは、子どもが「発達障害と疑われている」「そう診断された」という話である。これを聴けば、受診者本人の特性も、ほぼほぼ肯定すべきものとなる。こうしたケースの経験が重なれば重なるほど、医者は「特性の有無」「特性の濃淡」の感知にヨリ敏感となっていく。「かすかな」所見、「極めて薄い」所見がどんどん取れるようになっていく。特性をもちながら社会で「ふつうに」(むろんその内実は実は複雑で「フツー」どころではないのだが)生きている人が山ほどあることにヒシと実感をもてるようになる。

受診者は往々「やっぱり遺伝ですか」と観念したように、絶望のためいきをついて、小医に訊ねてくる。「親子は似るものですよね。単にそういうことです」と小医は「言い換え」ている。なにゆえに「遺伝」という言葉にそうも絶望するのか、わからない。「親子は似るもの」「きょうだいは似もすれば、他人の始まりというほどに似ても似つかないことがある」「親と孫とでよく似ることがある」など、当り前のことである。

小医のあっさりした説明に、しつこく食い下がる人があって、閉口したことがあった。しかたがないので、自然にさからってみても始まらない。諦めよとお釈迦様は言っている。たんなる町医者の私にお釈迦様以上の知恵が出せるとでも思っているかとたずねたら「お前はそれでもこころの医者か」と逆上された。夫と不仲で中学教師の中年女性であった。じぶんの思い通りにならなければ気が済まず、「現実を受入れる」こころの余裕をもたない頭でっかちのADHD/AS者にはよくある態度である。そういうことだから、夫と不仲にもなるのだとは、火に油をそそぐことになるので、やめておいたが。

家族歴で重要なことは、当然のことであるが、他に病歴ないし生活歴がある。「うつ(>うつ病)」「そううつ(>躁鬱病)」「統合失調症(疑い含む)」「パニック」「不眠」「自律神経失調症」「適応障害」「休職」「ひきこもり」「ニート」「フリーター」「不登校」「家庭内暴力」「自傷行為」「自殺」などの情報が、本人の病歴以外に、受診者の親族にもあることを聴取すれば聴取するほど、医者は「発達特性」とその他の病態との関連性により敏感となっていく。わづかでかすかな情報を「ひと嗅ぎする」だけで、特性がおそらくはあるだろうと「体感する」ことができるようになっていく。

例えば、次のような例はどうか? 

一見にはきわめてふつうの人で、小医にも特性の有無は肉眼的に検出限界ギリギリと言っていい人であったが、見た目がとにかく印象的であった。

主訴は「パニック」。

生活歴は「進学校卒」「一流大学経済学部学生」「公務員として就職がきまっている」。

見た目は「ボーイッシュな美人」「大きな黒い円い目」「活発な話しぶり」。

性格的に「内面は、明朗にみえる外面とことなり、意外と傷つきやすい」。

病歴は「高校生の頃、満員電車で気持悪くなった」「成人式の日もそうなった」「大みそかのカウントダウンイベントに参加したら気分が悪くなった」。

家族歴は「父が医者」「母は元看護婦で完璧主義の性格」「昨年、両親は離婚した」「母親はショックで寝込んでしまい、以来心療内科に通っている」「姉は高校の数学教師」。

となると、これはどうであろうか? 

疑うべき情報は十分揃っていると言ってよいと思われる。医師としてこの例に発達特性があるという判断にはいまだ迷う御仁であれ、すくなくとも、パニック神経症のみかたに「奥行き」が生じることは確実だと思われる。

小医がちからを込めて訴えたいことは、①発達特性のみぬき方ということの他に、②不眠や不安強迫、パニック発作など他の病態との関連づけを通して、いかに「精神科医の診察が深い技倆と洞察力という点で経験的専門性を有している」か、それを広く公に示すことである。「内科落第医が往々精神科医になっている」という偏見を打破したいのである。

「精神科医こそが内科医の原型である」と小医はつねづね思っているので、DSMなんぞに縛られて視野狭窄のくだらない診療を行っている精神科医をみると、腹が立ってきてならないのである。分厚いロングセラーの皮膚科学教科書一冊とドイツ文化に含蓄ぶかいエッセイを多数残された、いまは亡き皮膚科医の上野賢一先生が昔、膠原病におけるDSM的「診断基準」の氾濫にしめされた憤怒に、小医は今も共鳴する。

サテ、生活歴において、小中高大における本人やきょうだい、いとこの「不登校」歴が、重要である。これは必発とまではいえないが、かなり多い所見といえる。

なぜ不登校になるか? 

ひいては社会人になってからも、出社拒否・出勤懈怠となりやすいか? 

いろいろな理由があるだろうが、小医は最近「対人過敏」という言葉にまとめた原因説明に関心を持つに至っている。

発達特性者に、アトピー性皮膚炎、ぜんそく、花粉症などのアレルギー疾患併発者は少なくない。これら疾患と同様に、「アレルゲン」に相当するものとして「ヒト」の存在があるのではないかと思われるのである。

AS特性のひとつに「感覚過敏」があるのは周知の事実とされていると思う。人に触られるのがいや、ある種の物音や大きな音を出されるのがいや、他人のにおいに敏感、という「接触過敏」「聴覚過敏」「嗅覚過敏」が代表的なものであろうか? 通学のための満員電車はむろん苦痛である。動悸や過呼吸など、パニック(不安発作)を起こす原因となるからである。人のたくさんいる教室や講堂もいやである。嘔気や腹痛など身体に苦痛をもたらすからである。

「感覚過敏」と細かいことを言ってもいいが、「人が多いこと」自体が「原因」となっているから「対人過敏」と言った方が早いように思うのである。そして、じつは人は多くなくてもいいのである。気に入らないやつ一人あるだけで充分である。発達特性者は、人の好き嫌いが強い。これは経験上も理屈上も明らかなことだと言っていい。発達特性者は「視覚」にも鋭敏だからである。光刺激などへの過敏性が「視覚過敏」と伝えられているが、小医のいう「視覚」とは「美」のことである。「色彩のセンスのよさ」のことである。ASにせよADHDにせよ、発達特性者は美に対する感性がするどい。美醜のわかる人間が、万人を愛することはありえない。「美学的人間は人への好悪が激しい」とは同義反復(トートロジー)である。

「アレルゲン」となる人のタイプはきまっている。「怒る人」である。「悪感情をあらわにする人」である。「攻撃的な人」である。「情感過敏」とまとめていいだろうか? 「人の噂話を好む人」である。「否定的なコメントや人の悪口をいう人」である。「品性下劣で不正を働く(とみなされた)人」である。

ここには「人はめったなことでネガティブな感情を露わにしてはならない」「人は道徳的ルールを守って、善人たるべし」という規範意識が強く働いているようである。道徳上も、聴覚や嗅覚同様、静謐でクリーンなうつくしい環境を好むごとくである。

しかるに上記にまとめたような人びとは、この環境をみだすので、特性者の神経に甚だ障るのである。そうして上記規範の順守は自らにも強く課しているので、こころのなかの葛藤は甚だ強く、心の中の「かゆみ(いらいら)」「息苦しさ(もやもや)」は慢性化し、最高潮に達すると、「アレルゲン」から離脱する選択肢として、不登校、出勤懈怠が出現するのだと考えるのである。

そして原因や理由を家族や医者に告げることは、特性者に特有の理由からあきらかにするのは憚られるのである。もともとそれをアッサリ他人に告げることができるくらいなら、苦悩はそもそも生じないであろうから、自己の心理をサッサと開陳しない特性者に「特有の心理」とは何か? が次に問題となるが、これについては小医もいまだよくわからないくらい複雑なものであるため、この先のどこかでまとめて語ることにして、ひとまづ置こう。

或はAS者でもともと多いが、人にたいして基本的に「興味がない」ので、他人から好意をもたれることすら、精神的にしんどいということがある。自らの「物理的」「心理的」なわばり(テリトリー)に、じぶんが許可した人(気に入った人、こころを許した人)以外の人に「侵入」されるのが大変なストレスなのである。そうして往々特性者は「ノー」とハッキリ相手に言うことができない。このため、こころのなかの葛藤は甚だ強く、心の中の「かゆみ(いらいら)」「息苦しさ(もやもや)」は慢性化し、最高潮に達すると、(…以下同文)となるのである。

「対人過敏」にくるしむ人のタイプには、クール或は美人でいかにも人を遠ざけていそうという人(AS)以外に、一見いかにもウォームでフレンドリーなタイプ(ADHD)もある。しかしその外見とは裏腹に、周囲の目が気になってしかたがなく、内心はうちひしがれて、おだやかどころではなく、いったん事あれば、いつでも大泣きする準備ができている人たち(とくに娘)がある。毎日こうした心の重圧に苦しんでいると、心の中の「かゆみ(いらいら)」「息苦しさ(もやもや)」は慢性化し、最高潮に達すると、(…以下同文)となるのである。

これがいわゆる「社交不安症(SAD)」の典型例である。じぶんが周囲から否定的に評価されていないか、たえず気にしているため、頭頂は若い娘さんながらびみょうに薄毛になっている場合が少なくない。必ずしもそうでないこともあるが、発達特性を特に若年の女性受診者に感じた場合、かならず忘れずに頭髪の厚薄を観察すべきである。経験数を重ねるうち、必ず「おおっ」という発見があるだろう。「あの人も、この人も」と症例が繋がっていく実感も出てくる筈である。髪がゆたかにあっても、円形脱毛症の既往がないか、訊くのも無益ではない。受診者を「ふつうの人」と見ていては、いつまでたっても所見はとれないものである。

往々これらの娘は「自分に自信がなくて」というが、その自信欠乏とは「対人恐怖」を言い換えたものにすぎないと小医は考えている。その本質的洞察は、太宰治が『人間失格』(昭和23年)に詳述しているとおりである。主人公の葉蔵は、人が内心何を考えているのかわからないので怖いため、人がじぶんに悪意を向けない様、たえず他人の思惑に迎合して生きてきたと言っている(道化。SADの娘たちもこの仮面を被っていると見てよい)。「じぶん」という核がないのは、対人恐怖のためである。しかし「じぶん」という核がないから他人が怖いのかも知れない。いづれにせよ相関関係があるのだろう。太宰治はADHDではないかという説があり、そうかどうか、小医はまだ確信がもてないが、発達特性をもっていた可能性はあるだろう。「無類の読書好き」「クールな美男」「とびきりのおしゃれ」「江戸趣味への傾倒」「進学校卒」「一流大学中退」「アートを好んだ」「芥川龍之介の自殺に大きな衝撃を受けた(悲哀反応)」「記憶力のよさ(蔵書をもたない。自作を一度も言いよどむことなく朗々と読み上げて夫人に口述筆記させた)」「性意識のあいまいさ(女性の独白体にとびきりの才を現した)」「独特のブラック・ユーモアと辛辣な人間観察力」「ファンから崇拝されてご満悦」「けなされるとへこむ(芥川賞落選事件)」「他人をうらやむこと大」「生活能力なく他者依存的」「家計の概念なし」「希死念慮の継続と心中既遂」など、とりあえず思いつくだけ挙げてみても、かなりの確度を以てADHD/ASとはいえそうである。

脱線したが、SADの娘たちには必ずADHDを占う問診をすることだ。かなりの確度でADHD特性をもっているものと知れることだろう。しかし、基本となる特性は、これまでるる述べ来った「対人過敏性」にあり、これを占う問診の基礎知識は、アメリカ映画『レインマン』(1988年)を観ればよい。

(つづく)

 

 

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