私は数学(といつても、大学受験レベルだが)が好きなので、今も『大学への数学』といふ雑誌を定期購読して、実力の維持・向上に余念がない。「数と式」(4月号)「微積分」(5月号)「1次関数・2次関数」(5月号)「平面・空間ベクトル」(6月号)「方程式」(6月号)「不等式」(7月号)「指数関数・対数関数」(8月号)「数列」(8月号」と、全問解き続けてゐる。
こんなことをして、いつたい、なんになるのかと、じぶんでも半ばあきれてゐるが、この調子でいくと、来年、文系なら、京大はよゆうで合格するだらう(合格したところでしかたがないのだが)。まあ、老後の趣味といふところか。
むかし、老人たちは老後のひまつぶしに、将棋や囲碁を指してゐたものだ。しかし、こども時分から、わたしはどういふものか、将棋や囲碁をこのまなかつた。将棋上達の道として、「詰め将棋」の定石を覚えるとかいふ本を、父が寄越して来たが、一瞥しただけで返してしまつた。そもそも、私よりさう賢いともみえないやつが、自分に勝つことじたい、気に喰はなかつたのである。どうせ、猿のひとつ覚え。私にもうすこし、負けずぎらひの魂があれば話は違つたのかもしれない。しかし、要は、将棋や囲碁など、これらは曲芸のごときもので、まじめな知的労力を費やすに足りるものと、私はみなさなかつたといふことらしい。
その後、中高校生以降、私が自覚するにいたつたのは、私がすきなのは、わからないことにぶつかつても、めげず「エンエン考へ続ける」といふことなのである。考へること。それ自体が楽しいのである。なぜなのだらう、といふ問ひには最近突然こたへが空からおりてきて、それは、「考へてゐる時間」は絶対的にじぶんだけの、けつしてだれにも邪魔されることのない時間だから、といふものだ。さう、私はこの貴重な時間を、だれにも奪はれたくないのだ。
この歳になってやうやく気づいたことがある。数学で問題が「わからない」と、ひとつの問題を解くのに、何時間もかかつてしまふことがあるが、この「わからない」とはどういふ意味か。それは「題意がわからない」といふことなのである。わかりやすくいへば「せんせい、なんの質問をされてゐるのか、わかりません」。質問の内容が理解できなければ、解けないのも道理である。逆にいふと、質問の内容が理解できれば、あとは解けたも同然だといふことである。この点で私はもうひとつの事実を発見した。国語との類似である。
国語も、論説文や評論文など、不必要に難解な漢字を使つて、下等なことを上等なことのやうに言ひなす文章があるが(あるいは平易な字句がつかつてあるのに不拘、内容が高度過ぎて容易な理解をはばむ文章)、頁を繰るにも難儀する本といふものが確かにある。しかし、読書百遍、義、自づからあらはるものである。
この二つのプロセスは同一のもので、「ひたすら一心にその意を考へる」といふことである。費やす精神的エネルギーは莫大なもので、瘦せがちになるほどである。酒を飲む気は起きなくなる。しかし、少しづつではあるが、脳みそが鍛へられて確実に賢くなつていく。文系の少年少女は国語のみに注力して数学に注力する者は少数だが、惜しむべきことである。国語と数学にちがひはないものと私は思ふ。どちらも「意味」を追求してゐるからである。どうか、何を問はれてゐるのか、よく考へてみたまへ。数学は、たかがつまらない受験問題でも、どこか「異世界」に魂をつれて行つてくれるものがある。くだらない小説を読むよりも、ずつと上等な世界がきみを待つてゐるはずだ。





