「してみたい」と思うことは、一旦こころに浮かんでも叶わなかったり、忘れたままに放擲されてしまったりします。
六月のつゆの季節に、あじさいの大輪を、診療所内にかざって、日日愛でる。
そんなゆめが、この2年間でうかんでは消えていました。予算がはじきだせなかったり、多忙で季節を逃したり。今回もあやうく「逃してしまう」ところでしたが、六角の花市さんにたのんだら、「今ならギリで間に合うかも知れません」とあじさいの生産者に直接かけあって、立派な鉢植を2つ、取り寄せてくれました! ありがとう、花市さん!
日日のくらしで私がいつもかんがえることは、いかに快適にすごすか、です。
ココ・シャネルは「贅沢といえば快適でなくちゃ。そうでなければ贅沢とは言えないわ」と言ったそうです。
「贅沢(luxurious)」の定義は、ひと思案もふた議論も要しますが、それはさておき、私がときどき人に言うことに、人生の大半の時間を費やす「職場環境」というものを、いったい、日本人は一分一秒でもまじめに考えたことがあるか、という話題があります。新聞やテレビは「人権」とかきれいごとを言うのがすきで、それを読んだり見たりするのが好きな大衆も、何かあればそんなことを訴えるくせに、かんじんの職場環境にはいっかな関心がないようで、職場環境を美化しよう、上質なものにレベルアップさせようという声を少しも聞きません。みんな、それでよく耐えてるなあ。せっかく、この世に「ひと」として生まれてきながら、とどのつまり、どうでもいいのでしょう。時に「オシャレなオフィス空間」をつくっているとかいう企業がインテリア雑誌などで紹介されたりもしていますが、いづれ流行に乗っかっただけの愚なデザインと安普請であるのがたいていです。「本物」がしつらえられてあることは絶えて見たことがありません。ためにまともな神経はすりつぶされ、疲労は蓄積してゆくばかりです。
そんな浮世の憂さを瞬時わすれるためだけでも、つゆで憂鬱な六月、あじさいの色彩をめでて、大いに気を散じてみたいと思うのです。
あぢさゐや ながめせしまに 半世紀 明以
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