うそか誠か、フランスの学童たちは小学校にはいるや、祖国の文人、ラ・フォンテーヌの『寓話』を暗誦させられるのださうだ。その第一話がイソップの『蟻と蟬』。
日本の親は了見が狭いので、そんなことをさせたら「強制」だとか屁理屈をかならずや言ひだすだらうが、かういふのは、あとあと子どもに精神的の糧、財産となるものなので、フランス人の智慧のほうが勝りさうである。しかし、イソップ寓話はほんらい大人の読み物で、こどものよみものではない。
日本に蝉はうじゃうじゃゐるので、正しく翻訳されたが、欧州では地中海より北に行けば、寒いので蟬がまるでゐない。しかたないから、こほろぎ(蟋蟀 cricket)やら、キリギリス grasshopper などと「意訳」された。

現在、イソップ寓話は、散文で訳されてゐることが多い。
しかし、ハッキリ言はう、これは学者たちの絶対的ちから不足による。学者バカになり果てゝゐるのだ。ラ・フォンテーヌは韻文にしてゐる。なぜさうするかといふと、記憶に残りやすいからである。「詩」のちからはかくも偉大なのである。こゝにあげた楠山正雄編『イソップものがたり』(原書1925年、武井武雄画)は、ラ・フォンテーヌにおそらく敬意を表したのであらう。七五調に訳出してゐる。これくらゐの文学史的配慮も、現代の学者には到底期待はできないであらう。あゝ、なさけなや。

「利息をつけて」うんぬんは、ラ・フォンテーヌが面白がつてつけた修辞で、たいていの本には書いてない。サテ、この日本語訳を下敷に英語を読んでみよう。オックスフォードのLaura Gibbs訳は、相当まづい。蟻は集団でいきる虫なのに、一匹しか登場させない愚を犯してゐる。英文も全体に平板でつまらぬ。英書絵本についてゐた英文をこゝではあげる。日本語に訳された『イソポのハブラス』、『伊曽保物語』双方も、おほすじ、以下の英文と違ひはない。

蟻たちはキリギリスの言ひ分に答へてかう言ひました。「夏を歌つて過ごしたと言ふのかい。それぢや冬には踊るが一番さね」。蟻たちはくすくすわらひ、仕事をつゞけましたとさ。
教訓「怠惰には酬むくひがある」こゝで「教訓」と訳された Moral は、専門用語では、末尾教訓 Epimythium といひ、前置教訓 Promythium と対をなす。
末尾の蟻のセリフ、『イソホのハブラス』では、蟻「げにげにその分ぢや、夏秋歌ひ遊ばれた如く、今も秘曲を尽くされてよからうず」とて、とある。『伊曾保物語』では、蟻申しけるは「今とても、など、うたひ給はぬぞ。謡うたひ長じては、終つひに舞まひ』とこそ承うけたまはれ。いやしき餌食を求めて、何にかは、し給ふべき」とて、穴に入りぬ。とある。ほゞ正確に伝つたはつてゐることがこれでわかる。
この寓話の「教訓」は、上記のとほりで、蟻の非情さ、キリギリスの惨めさが際立つ仕掛になつてゐる。おほくのイソップ本で、蟻はキリギリスになんにもやらず嘲あざわらふだけであるが、なんと『イソホのハブラス』では「散々に嘲り、少しの食を取らせて(穴に)戻いた」とあるのである。これは温情主義の稀有な例である。後代、かのジャン・ジャック・ルソーがこれを知つたなら、随喜の涙を流したに相違ない。
「格差」ある文明社会を「堕落」と呪ったルソーは、大ベストセラー『エミール』で、蟻の主張にこどもたちが共感することを赦ゆるしてはならないと、この寓話を有害視してゐる。ルソーは、じぶんのした悪事(愛人に産ませた5人の子供を孤児院に入れた。こどもの生死は保証されない。孤児院の実態についてはたとへば映画『パフューム』を参照)は棚にあげて、キレイゴトの善を説く困つたやつで、「冷厳なる現実」に目を向ける文学(以前にも述べたが、たとへば、ラ・ロシュフコー)はすべて悪とするから手に負えない。
イソップ寓話は、ほんらい癖の強い文学で、その好悪で、ひとを二分できるかも知れない、と気づいた。次回は、ラ・フォンテーヌの『寓話』第二話に選ばれた『カラスとキツネ』をとりあげてみます。





