上質な茶を啜すすりながら、西洋の古典音楽を大音量で聴きつゝ、書見しょけんするのは、閑雅な休日の楽しみ方といへやう。
いま「大音量」といつたが、誰もが名前だけは知つてゐる日本の古典に、これと似た言葉があるのを御存知か? 知つてゐる人は即座に答へられるし、知らない人は頓とんと知らないので、人種が二分されてしまふ。
九郎大夫判官くろうたいふのほうがん、其日そのひの装束しょうぞくには、赤地の錦にしきの直垂ひたたれに、紫すそごの鎧よろい着て、こがねづくりの太刀たちを佩はき、切斑きりふの矢や負ひ、しげどうの弓のまンなかとツて、舟のかたをにらまへ大音声だいおんじょうをあげて「一院の御使おんつかひ、検非違使五位尉源義経けびいしごいのじょうみなもとのよしつね」と名のる。(平家物語・巻第十一「嗣信最期」冒頭)
このころの戦では、お互に名のりをあげて、戦ひ、そのときには大声をだすので、極きまつて「大音声だいおんじょう」をあげるといふ言ひ回しが出てくる。
『平家物語』には、何度かチャレンジしてゐるが、岩波文庫で四冊もあるのだから、たまらない。しかし、これを読破せずに死ぬのはいやだなと思って、第四巻から読みだした。昔ちいさいときに絵本でよんだ牛若丸の物語。ほんたうの歴史事情はどうなのだらうといふ興味もある。75歳で死ぬまでには必ずや読了するとこゝろに極きめた。第四巻から読み始めたのはそこに興味がかさなつたからだが(近い内にまた触れる)、意外やスラスラ読める。
巻第十一には有名な「那須与一なすのよいち」の段がある。平家のうつくしい女房が沖にうかぶ舟から差出した扇を的に、射抜いてみよとの挑発に、義経から命を受けた弓の名手、那須与一が、浜辺から、みごと的を射抜いて見せる。
与一、目をふさいで「南無八幡大菩薩、…この矢はづさせ給ふな」と心のうちに祈念して、…鏑かぶらをとツてつがひ、よツぴいてひやうど放はなつ。…浦ひゞく程長鳴ながなりして、扇のかなめぎは一寸ばかりおいてひイふつとぞ射きツたる。鏑は海へ入いりければ扇は空へぞあがりける。しばしは虚空にひらめけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさツとぞ散ツたりける
ただただ、カッコイイ。かつ優美である。那須与一は、これ以外、歴史書に名前をみつけることができないらしいので、架空の存在かと疑ひたくなるが、子孫はゐるさうなので、実在の人物とみられる。
源平の戦といへば、何をおいても、牛若丸こと、九郎判官義経なのだが、『平家物語』の、この巻第十一をみる限りでは、短気、好戦的、冷酷で、世間によくある織田信長のイメージに近い。なぜ、これほどのことを、たゞ読めばわかるのに、世間では誰も指摘しないのだらう。
梶原申しけるは「よき大将軍と申もうすは、…片かたおもむきなるをば、猪のしゝ武者とて、よきにはせず」と申せば、判官「猪のしゝ、鹿のしゝは知らず。いくさはたゞひら攻めに攻めてかツたるぞ心地はよき」との給へば、侍共、梶原におそれてたかくはわらはねども、目ひき鼻ひき、きゝめきあへり。判官と梶原とすでに同士どしいくさあるべしとざゞめきあへり
水手・梶取申けるは「此風はおひ手にて候へども、普通に過ぎたる風で候。奥おきはさぞ吹いて候らん。いかでか仕り候べき」と申せば、判官おほきにいかツての給ひけるは「野山のすゑにて死に、海河のそこにおぼれて失うするも、皆これ前世ぜんぜの宿業也。海上に出でうかうだる時、風こはきとていかゞする。むかひ風にわたらんと言はゞこそ、ひが事ならめ。順風なるがすこし過ぎたればとて、是程の御大事にいかでわたらじとは申ぞ。舟つかまつらずは、一々にしやつばら射殺せ」と下知せらる。(巻第十一「逆櫓さかろ」)
先の「那須与一」の段でも、臆病な与一が「私には自信がございません」と辞退すると「鎌倉をたツて西国へおもむかん殿原は、義経が命をそむくべからず」と与一を恫喝してゐるし、与一の快挙に平家の老武士が舞を踊つて、エールを送つたのに対して、儀礼を無視して、与一に矢を放てと命じてこれを射殺してゐる。これにはさすがに源氏の侍からも「なさけなし」の声があがつてゐるが、義経はおかまひなしである(巻第十一「弓流ゆみながし」)。
尤も、板坂耀子(いたさか・ようこ)先生の教示によると『平家物語』の用兵、出師すいしの策は、つねに奇襲、強硬、積極を是とするものと極きまつてゐるので、義経の性格は、その枠わくに嵌はめ込まれているだけかも知れない。しかし、私は、義経は、相当に残忍、酷薄な、人でなしであった可能性が高いとみる。
物語はさうしてゐる内に、壇之浦合戦に突入。義経に通じた裏切者(阿波民部重能あはのみんぶしげよし)を斬首しようと智謀の知盛(新中納言)は、総大将の宗盛(内大臣)に諮るが、無能な宗盛は判断ができない。陸戦ではいかに強くとも、海上戦では源氏も物の数ではないと平家は強気でゐたが、義経は、舟漕(船頭、舵取)などの非戦闘員もかまはず弓で皆殺しにしたから、平家の舟は操舵不能となり、戦の趨勢は、平家の敗北へとつひに決した。知盛は、一種の哲学者で、死に際しても、現世に超然とした有名な科白せりふを吐く。
新中納言「見るべき程の事は見つ。今は自害せん」とて、めのと子の伊賀平内左衛門家長を召して「いかに、約束はたがふまじきか」との給へば、「仔細にや及および候」と中納言に鎧よろひ二領着せたてまつり、我身も鎧二領着て、手をとりくンで海へぞ入いりにける。是を見て、侍共廿余人おくれたてまつらじと、手に手をとりくんで、一所に沈みけり。(巻第十一「内侍所都入」)
『平家物語』では、現代では「自殺」といふところを「自害」といふ言葉で、統一してゐる。このことに気づいたところで、私はかねて苦言を呈したいことがあるのを、にがにがしくも、思ひ出したのである。そのことは別稿としたい。といふか、それを書くために、これを書いたともいへる。







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