医学部に入り直して、こまったのは記憶力の減退であった。
若いときは一瞥しただけで記憶がいつでも鮮明に再現されたものが、はなはだ頼りなく風がふけばたちまちに四散していくような記憶となっていた。
漢字は得意だったはずが解剖学用語が全く頭に入らない。たとえば胸鎖乳突筋である。
しかしこれがsternocleidomastoid m.となると頭に入るようになったのだからふしぎなものである。「ああ、わが脳みその日本語記憶容量は既にいっぱいに達してしまい、横文字ならばまだ容量があまっていたんだな」と当時は単純にそう理解した。医学部の6年間、私は教科書はぜんぶ英語で勉強した。生理学の教科書に日本語で書いたもので理解できるものがまるでなかったこともあるが、おかげでNew England Journal of Medicineなどはスラスラ読める様になったから、ポリクリ中のレポートに読んだ海外の論文などを引用しておくと、成績がよかったりした。
しかし医学部を卒業して研修医となると、再び日本語が入るようになり(なぜか)、愛読したのが日本医事新報だった。現在のものはまるで面白くなくなってしまったが、縦書を堅持していたころの日本医事新報は読んでいて楽しかった。また精神科医になり海外の文献を読んでも臨床ですぐにやくだちそうなものは見当たらなくなり、西丸四方、臺弘、笠原嘉、中井久夫など、ふるき智慧が私の支えと変った。
解剖学では、脳神経解剖の難しい知識をならったが、臨床では全く役立たなかった。役立てていないだけだとおしかりを甘受するのが謙虚な態度なのかもしれないが、じっさい役立っていないのだから仕方がない。
しかし、教授から今もわすれない永遠の名詩をおしえてもらったことだけは徳としている。
宿題 辻征夫
すぐにしなければいけなかったのに
あそびほうけてときだけがこんなにたってしまった
いまならたやすくできてあしたのあさには
はいできましたとさしだすことができるのに
せんせいはせんねんとしおいてなくなってしまわれて
もうわたくしのしゅくだいをみてはくださらない
わかきひにただいちど
あそんでいるわたくしのあたまにてをおいて
げんきがいいなとほほえんでくださったばっかりに
わたくしはいっしょうをゆめのようにすごしてしまった
神戸大学解剖学・寺島俊雄先生の随筆「中尾先生の思い出」は滋味ゆたかなもので、このサイトからダウンロードできます。
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