アリス(3)

「これは魂消たまげた」といふところはなかつたので、アリスも、ウサギが「おい、おい、これは大した遅刻だよ」とじぶんにむかつてひとりごちてゐるのを聞いても、大したこととはかんがへなかつたのですが(もつとも、あとになつてかんがへてみると、これには驚異の目を見開くべきでありましたが、そのときは、きはめて自然なことと見えたのでした)、ほんたうにウサギがジレのポケットから懐中時計をとりだして、それに目を遣り、急ぎ駆け出すと、アリスは立ち上がりました。といふのも、さういへばさうだつたと、パッと次のかんがへがおもひ浮かんだからです。私は、ジレを着たウサギなんて見たことないし、懐中時計をそこから取出すなんて、前代未聞よ! アリスは好奇心の塊になつて、野原をよぎり、ウサギをおひかけ、ウサギめが、垣のしたにある巨きなウサギの巣穴に飛び込む一瞬を、ぎりぎりのところで、みとゞけました。つぎの一瞬には、アリスもウサギを追つて、おなじく穴にとびこんでをりました。もういちど、この地上世界にどうやつてもどつてくるか、なんてことは、すこしもアリスの頭にはおもひ浮かびませんでした。

「ジレ」は、waistcoat をチョッキ(ベスト)と訳すと野暮ったくなるところを救出すべく、フランス語でオシャレに訳出してみたもの。

『アリス』の魅力は、冒頭から読書を「ワールド」に引き込む吸引力。並の吸引力ではないとおもふ。わたしは英語で読んで、一読巻措く能はず、驚異の作品と称賛してゐる。こどもが読んで面白いといふより、おとなが読んでおもしろい童話だと思ふ。

remarkable. チャップリンの『ニューヨークの王様』といふ映画では、「驚くべき天才少年」といふときに、このremarkableが使はれてゐた。英英辞書ではordinaryの反対語とある。語感のわるい日本人は(例、西村孝次、富士川義之)、オスカー・ワイルドの傑作”The Remarkable Rocket”を「すばらしいロケット花火」と誤訳して平気である。かういふ人たちはそもそも英語がなにか、といふより、日本語がなにか、文学がなにか、死ぬまでわからないのだらう。

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