病気の説明

病気の説明・各論12

あがり症・対人恐怖症(社交不安症 Social Anxiety disorder; SAD)、パニック神経症、不安神経症、心気神経症、強迫神経症、不眠症


インターネットで精神科の「病気」について検索すると、いかにも分かったような説明がありますが。

…でも、はたして、ほんとう、なんでしょうか? 

医者の資格をもっているじぶんがじゅうぶん納得できないような説明を、医者のみなさん、患者さん相手によく平気でしているものだと思っています。

「精神科の科学」においては、よほど飛びぬけた技術革新が将来、実らない限り、脳科学を中心とする医学が説明を首尾よく果たせることはないと小医は思います。

これまでの医学史をふりかえってみても、医学の飛躍的発展は、医学以外のテクノロジーの革命的進歩なしにはありえませんでした。

カール・ツァイス製の高性能顕微鏡。

染色技術を支える重化学工業の発展。

これなしに結核菌の同定をはたしたロベルト・コッホの細菌学は成立せず、白血病をはじめさまざまの病名を考案し、近代医学の土台を築いたルドルフ・ウィルヒョウの病理学も、成り立ちはしなかったのです。

アイデアとして成り立ちはしえても、「実証」を支える技術なしに、医学が飛躍的発展をとげることはありません。

だから、精神医学の説明についてはみなさん、眉にしっかり唾(つばき)をぶっかけておいたほうが賢明だと思いますよ。

…私のこれからする説明に対してこそ、じつはそうなのかも知れませんが。

現状では、何を信ずればよいのでしょう? それは医者がする病状の丹念な観察と「正確な記述」です。この地道な作業の積重ねが将来の医学の発展を保証する唯一のものではないかと私は思います。たとえば、ジェイムズ・パーキンソンが正確なパーキンソン病の記述を残したので、天才神経学者ジャン・マルタン・シャルコーがその文献を正しく再評価することができ、時間をかけて現在の病態及び治療の解明の進展へと繋がっているのです。伝統的に「内因性精神病」に分類されている統合失調症や広義の躁鬱病も、真の原因と病態こそまだ明らかにはされていませんが、エミール・クレペリンをはじめとして百年を超える患者や症状の正確な記述の積重ねの上に診断学や病態学が成立しています。自閉症については、精神科医ははじめ見向きもしようとしなかったのが、少数の小児科医や教育の現場にある養護教員の丹念な観察と特性記述の積重ねの上に、徐々に知られてきたのです。

以上、前置き。

そんなことはどうだっていい。標題は、それにしても、ずいぶんと乱暴なまとめ方ではないかと、お思いになった方が多いかと思います。「なんなんだ、これは? ほとんどすべての神経症をいっしょくたに解説しようと言うのか、この医者ときたら?」

…小分けして説明するのは、正直、めんどくさいんです。と言ったら失礼ですが、まとめて説明するのは小医なりにわけがあるので、よかったら耳を傾けてみてください。

人前で話すことに緊張する人ってあります。動悸がしたり、汗もむやみに出たりして。「え~、なんで?~、全然そんな風にみえないのに~」とか周囲に言われつつ、人知れず深く悩んでいる方があります。そういう機会にのみ、ふあんのお悩みがある人を「あがり症」と呼んでいます。

その一方で、常時、人前での緊張がある人もいますね。とにかく人目が、人のじぶんに対する評価がいつも気になって、気になって、仕方がないんです。「私、嫌われてないかしら?」「みんなにめいわくかけてないかしら?」「ああ、また私、キット悪口言われているんだわ。そうにきまっているんだから!」「もう、今夜も眠れそうにない。反省会よ、反省会! あんなこと、言わなければよかった…。うう、サイアク~」 あんまり気にし過ぎて、円形脱毛症ができたり、なにげに頭髪が薄めになって、それが最高のお悩みになっている淑女も少なくありません。「社交不安症(SAD)」と呼んだりしています。昔は「対人恐怖症」と呼んでいたものです。「対人過敏症」と言ってもいいかもしれません。

駅、学校、広場など、人目の多いところは、それだけで、もうめまいがしそう。胸がつぶれてしまいそうなほど、人酔いしてしまって、ふあんが募って仕方のない人もあります。電車やバス、美容室やレストランなど、他人が自分のそばにいる環境からしばし逃げ出すことがむつかしいような状況でも、似たようなきぶんになってしまう。短時間腰かけるだけで済むお茶なら大丈夫でも、一定の時間は居座ることになる食事となると、絶対無理とか。「パニック神経症」ですね。過呼吸発作などは、彼氏とのいさかいや夫婦喧嘩など、感情的混乱から起こす人もすくなくありません。

経過はこうした不安発作がすぐに治まる人から、しばらくは続く人まで、さまざまで、なんとなく、じんましんやアトピー性皮膚炎の経過に似ています。

原因はなんなのでしょう?

「パニック神経症」については、疲労が原因なのだとか酒やカフェインが悪いのだとか、わかったような、わからんような説明が、ネットや本にはついていると思います。しかし、物事はストレートに行きましょう。

人が怖いんです。要は。

ではなぜ他人が怖いのか?

よくある説明は、うまれそだった、生育環境でそうなったというもの。「あがり症」や「社交不安症」については、そういう説明が多いのではないでしょうか。しかし、私はそんなのはいかにも大衆が考えだしそうな俗説とみなしています。

もともと人や視線が怖いと思うふうに、感情的ストレスには脆弱なように、うまれついていると説明する方がはるかに科学的です。

そして医学的、生物学的にそれを説明できる理屈はひとつしかありません。

その理屈とは?

そこに進む前に、ふあんが募りやすい人というのもまたあります。とくに将来について案じやすいのです。

神経症の基本中の基本が、この「不安神経症」です。

将来を極端に心配します。

「もし~なったら、どうしよう?」

ああでもない、こうでもない。

家が破産したら? 病気になったら? 天災が起きたら? パートナーと死別してひとりぼっちになったら? …将来はいかにも未確定ですから、ふあんの種なら、探す気になればいくらでも出てきます。高齢者におおく見られるので、「歳をとるということは、心も弱るということなのだ」と単純に考えておりました時期もありましたが、ふあんになりやすいタネは、元々本人にあったのだろうと改めてそう思います。

病気や体調に特化した心配のものを「心気神経症」と呼んだりもします。すこし体調が悪いと、或は芸能人の病気のニュースを知ると、たとえば「私も乳癌なのかしら?」と気をもんだりします。

「ふあん」が特に亢じたものを「強迫」と呼んでいます。ほとんど「信仰」や「こだわり」の域にまで達しているふあんです。「あ! ゴキブリ、発見! う~。台所はすべて汚れてしまった。食器はお皿ぜんぶ100回は洗わないと!」とかですね。最も多いのは、戸締りや火の元を必要以上に確認してしまうというものです。家から出てしばらく歩いた後、「ああ、だめだ、もう一度確認してこよう!」と家に二度三度、戻ったりします。

この世に生きているかぎり、ふあんや恐怖は、全ての人につきものです。しかし、たいていの人は、しんぱいですね、こわいですね、と口ではいっても、図太いものです。「ま、だいじょうぶだろう」と内心は大抵へいきで、夜もすやすや安眠してしまいます。

しかし、ある種の人は、なぜ、夜も眠れないほど(不眠症)、生活にも支障をきたすほどまでに、思いつめてしまうのでしょう? 考えても、悩んでもしかたのないことをいつまでもぐるぐる堂々めぐりに考えつづけて、まとまりません。

科学的にはそう生まれついているというほかはありません。親のしつけとか環境の影響をもちだすのはくりかえしになりますが、俗説と小医は考えています。

この「将来を案ずる」「思いつめやすさ」「堂々めぐりの思考」について、医学的、生物学的に説明しやすい理屈は、やはりひとつしかありません。

その理屈が、さっき「お預け」としておいた理屈と同じなのです。

…ツマリは、発達特性です。

ヒトの脳神経(精神機能)の発達については従来、知能だけに焦点が当てられてきました。いわゆる知恵遅れです。昔は「精神薄弱」と呼んでいたものを、これは「差別語」だとか言う人が出てきたので現在は「精神遅滞」と言い換えられています。しかし、人の精神機能というものは、俗に「知・情・意」と申すように、知能だけが成分ではありません。感情や気分、意志、意欲というものも、成分です。この部分のおくれもあると考えられるきっかけとなったのが、自閉症児の存在でした。その存在が、学界的に認められるようになったのは、日本においては、じつに第二次世界大戦後のことです。そして長く「自閉症」特性は、ごく特殊なことのように狭く解されて、広く一般的に解されることがなかったので、いわゆる「発達障害」の理解は遅れて20世紀末までズレ込むことになったのだと思います。そして2019年に至ろうとする現在でも、なおこの特性理解は、じゅうぶんに広まってはいないのではないかと思われるのです。

私が考える「発達特性」(自閉症特性)は、アメリカ映画『レインマン』(ダスティン・ホフマン、トム・クルーズ主演、バリー・レヴィンソン監督、1988年)を見ればすぐ誰にでも了解できる、ごく単純なものです。

 

①人と目が合わないこと。他人が何を考えているか推測できないので、じぶんに危害を加えてくるのではないかと考えて落着かないこと。

 

②典型的な自閉症児が母親の抱っこを「イヤや」と言って嫌うように、感覚過敏があること。孤独を好んで、人にさわられることを嫌います。聴覚過敏も多いです。対人関係はじぶんが心を許した人とそうでない人とで大きな落差があります。

 

③言葉の遅れがあること。じぶんの思いを言葉に乗せることが苦手です。スッとじぶんの言いたいことを伝えにくいのです。

 

④記憶力に長けています。とくにじぶんにとって不快な体験が長く記憶にしみつきます。いわゆる「トラウマ」やフラッシュバックの基礎はこの特性に基づきます。

 

⑤変化を嫌います。いつも同じであることを好みます。変化をもたらしうる将来をおそれ、危惧します。「恒常性」というルールから外れること、「目標」やゴールが見えない状況を心配します。じぶんの好きなこと、きらいなことへの執着が激しいです。

 

⑥見る人です。視覚・映像優位です。ことばの要らない色彩や形象の美をこのみます。「正確さ」に忠実です。微に入り細に入り細かく観察しています。音楽をこのむ人もあります。

 

⑦情報優位で頭でっかちな上、かたくなです。終始「あたまの世界」に住んでいて、「現実」への応用が利きません。臨機応変ということを知りません。「変化にみちた現実」という「応用世界」のなかで、頼りなく、混乱をきたしやすいです。ようするに、「社会性」というものを欠きます(社会的愚鈍 social idiot)。

 

⑧怒りや叱責という感情的対応をとられることを過度にきらいます。じぶんがそういう感情を発露することも好みません。表情がきわめて乏しい(一種類)か、せいぜい二種類くらいしかありません。何を考えているのか読めない顔をしています。

 

⑨「じぶん(自己)」が乏しい人です。じぶんでじぶんのことがよくわかっていません。だから「他人のきもちもわかりにくい」のです。というのは、そもそも参照すべき「じぶんのきもち」がわからないからです。自他の別が乏しいです。「じぶん」が定まっていないので、「じぶん」の考えに基づく判断がにがてです。万事受身で、意志薄弱、優柔不断です。いつまで考えて、決まりません。ついに判断するとして、基本的にクールで公平客観、冷静な判断を好みます。

 

上記特性はADHD系を外したAS系のまとめですが、映画をみれば①~⑨はすべて容易に確かめることができると思います。

この上記特性については「濃淡」及び「ふぞろい」ということがあると「仮定」して、ADHD系の「未熟性」特性(ちゃらんぽらん、お人よし、外交的、めだちたがり、傷つきやすさ、泣虫、弱虫、わがまま、甘えん坊など)も加味すると、さまざまの「神経症」患者のベースがほんとうによ~く見えてくるのですね。

小医の目からいわば「肉眼的」に見て、あきらかに特性があるとわかる人から、きわめて薄くその特性をかすかな痕跡程度に「触知」できる人、ついで、小医の目を以てしても「みえない」、いわば採血検査や画像検査などに匹敵する「精密検査」が将来もし実現できたとしたならば、それを行って初めて検出することができるのではないかと思われる人まで、グラデーションをなしているように実感しています。

たとえば、「あがり症」「社交不安症」「パニック神経症」における対人恐怖は、上記①特性以外に、医学的に説明できる理由があるのかどうか? 

小医はないと考えています。

「あがり症」においては、①以外に⑤の特性が働いていると考えると、たんじゅんに説明がつきやすいように思います。それ以外に、いわば「肉眼的に」もあきらかに発達特性があると見える人もこの中には多いのです。たとえば、年齢に見合わぬ落着きとクールさを備えた容貌をもっている人です。だいたいがハンサムです。表情がすくないからです。上記でいえば⑧です。お目目パッチリ美人も多いです。お人形さんのような雰囲気があります。これも⑧です。①の他人と視線を合わせないことと矛盾しないか、といえば、しません。小医がその点を直接患者さんに訊ねますと、「ほんとうは合せたくないが、社会人としては、意識して合わせている」と言うからです。このような「黒い丸い瞳」は動きの少なさや輝きの少なさからも「意識して」人と目を合わせているのだなと、経験を積んだ人ならば、かならず容易に見抜けるものです。

「社交不安症」については、だいたい①③④⑥⑧⑨が、問診をすれば、揃って出てきます。さらにADHDを疑う問診(部屋は片付くか、忘れ物がないか、職場でミスが多くないか、〆切はギリギリか、お金は浪費するか、etc.)をすると、往々のばあい、ズラズラ出てきます。

「パニック神経症」については、①④⑤⑧の特性が働いていると考えると、発症メカニズムがたいへんわかりやすくなると思います。「またなったらどうしよう?」という、パニック神経症につきもののいわゆる「予期不安」とは正に④と⑤に基づくものです。それ以外に、パニック神経症を訴える人にお目目パッチリの美人は、あがり症と同様に、多いのです。これについては昔、貝谷久宣先生の「パニック障害」の講演を聞いたときに、「パニック障害には美人が多いのです」と有名な女優さんやタレントさんの例を引き合いに出して説明されたのを聞いて、「みょうなことを言う先生だなあ」と感じたことを思い出します。聴衆も半信半疑で聞いていたように感じましたが、現在の小医の実感からしても、貝谷先生の指摘は「正に当っている」としか言いようがありません。

余談になりますが、いわゆる摂食障害の娘さんたちのパーソナリティーのベースにADHDやASの発達特性が隠れていることは、徐々に多くの医師が指摘するようになってきています。しかし、それ以前、ずっと摂食障害患者の臨床記述と治療に徹しておられた下坂幸三先生は、その著書のなかで、W.W.Gullによる「神経性食思不振症(アノレクシア・ネルヴォーザ)」患者の古い19世紀英国での報告に付された患者イラストを指して「いづれも美人である」と的確なコメントを書かれていることに、小医は瞠目しました。だれもが何となく感じてはいるものの、明確に意識にのぼらせるまでには至らない印象を、ズバリ明記する。これが精神科医に求められる文学的資質の第一だからです。にぶい人は要りません。臨床精神医学の基礎を築いた一人、カール・ヤスパースがその著書の中で、「にんげん」というものを虚飾なく描いたヨーロッパのモラリスト文学を推奨していることは、決して偶然ではありません。しかし、そのことの意味をきちんと理解しえている精神科医は、いまどきのこのご時世に、どれほどいることか…。「教養」なき高学歴者ばかり増えている時代を憂えます。そういう人びとはきまって「美的感覚」を著しく欠いているものですが、「美」がうしなわれた現代ニッポンという社会にはかえって似つかわしい存在なのでしょうか?

サテ、「不安神経症」「心気神経症」「強迫神経症」「不眠症」については、⑤⑦の特性が大きいように見えます。頭でっかちです。そして、人の言うことを聴き入れません。往々じぶんの言いたいことだけ、えんえんと話し続けます。これは「不安」が大きいからそうなのかなと漠然と従来みなしてきたのですが、対人コミュニケーションにおける「双方向性の欠如」という視点に立つと、必ずしもそうではないと思うようになりました。この手の患者さんは、比較的精神状態が安定しているときは、医者に対して極めてそっけなく、薬だけ求めて世間話をすることもなく、すぐに退席したがり、殆ど自己開示ということをしません。この点、⑨を示唆します。要するに困ったときだけ医者に頼ってくる身勝手さがあります。往々表情の乏しい人が多いです。大げさすぎる人も偶にあります。この点、⑧を示唆します。

いわゆる「神経症」のベースに「発達特性」が隠れていることが多いと、上記に小医がるる述べ来ったことは、最近、少しづつではありますが、広く知られるようになってきている臨床的事実であると思います。

小医は精神科医となって3, 4年目あたりから、「神経症」患者に注目し、一人ひとりの違いに注意しながら、細かく観察を重ねてきましたが、そうするようになってから、文献は却って、ほとんど読まなくなりました。明日の臨床に直結して役立つような文献が見当たらなかったからです。かわりに目の前にある「患者さんという書物」ばかりを読むようになりました。しかし、それでも、不勉強ということはなく、まじめに丹念に臨床をしているかぎり、参考文献にあげたような書物をみれば、私の実感と大きく離れることはないばかりか、殆ど同じで、じぶんでもどうかなとおもってきたことも、なるほど、やはりそれでよかったんだなと、後づけで確認している次第です。

患者さんのなかには、発達障害は詳しい検査をしないと診断できないとか、まちがった教条主義的理解しかもっていない人がありますが(医者の中にも残念ながらいる)、そういう認識こそ「古い」ので、「パッと一目見ただけで発達障害の特性をたくさん持って」いると知れる患者さんはいくらもあるのです。

だいたい、科を問わず、患者さんの主訴や病歴、ようすを見て瞬時に「あたり」がつかないようでは、プロの臨床医と呼べません。事実を認めたくない、受け入れられない、という幼い心情から、小医の診立てをキメツケと誹謗する患者さんもありますが、「見えるものは見える」ので、医師としてはお伝えする他はありません。そして、そう診断する根拠は、別のところで詳細に説明していますが、すくなくない数の観察ポイントと所見に拠っています。

ある医者たちによると、現在は「発達障害」を「見逃す医者」と「過剰診断する医者」が混在している状況だといいます。そして「発達障害」者には「障害」が消えたり出てきたりする「グレーゾーン群」があるといっています。

しかし言葉はもう少し精緻に使うべきだと小医は思います。「障害」があるかないか、それは、本質的に、福祉的(政治的)判断にぞくするものです。医者が診断すべきことは「発達特性」の有無です。これは自然的事実の有無の問題なので、それに過剰診断ということはありえないと思います。「見逃し」は勿論、論外です。現状の問題点は「見逃している医者」がかなり多いということです。「グレーゾーン」とは、「発達特性」がいわば「肉眼的に」検出しうるか否か、検出限界にある「ゾーン」のことを指していうべきです。上記の論者たちのいう「グレーゾーン」患者は「グレーゾーン」どころか「発達特性」はちゃんと存在していると言って間違いのない人びとのことなので、そういうあいまいな言葉を使うべきではないでしょう。特性がありながら、社会で有能性を発揮し、活躍している人がいくらもあるのは、ごく常識的なことで、精神科の外来に訪れる「発達特性者」は特性者の「全貌」をあらわすものではなく「横顔」程度に過ぎないという事実を忘れています。「発達障害」があると言わざるを得ない人は、もともと典型例として、自然ごく限られています。

「過少診断」だとか「過剰診断」だとか、ぎろんがこじれる真の問題は、大衆がいだく「障害」という言葉へのアレルギー、及びそれにたいする精神科医の及び腰なのでしょう。「精神分裂病」を「統合失調症」に、「老年痴呆」を「認知症」に、「精神病院」を「精神科病院」に言い換えて、差別撤廃のために「なにかよいことをした」とでも勘違いしている国がらならではのたいへん根が深い問題です。

参考文献
・下坂幸三『拒食と過食の心理』(岩波書店、1999年)
・玉井収介『自閉症』(講談社現代新書、1983年)
・宮岡等、内山登紀夫『大人の発達障害ってそういうことだったのか その後』(医学書院、2018年)
・青木省三、村上伸治「自閉スペクトラム症の診断をめぐって;主として思春期以降の例について」精神神経学雑誌119巻743-9頁、2017年

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