病気の説明

病気の説明・各論14-1

アルツハイマー病


1「平和病」としてのアルツハイマー病

医療というものは、時代の変化、社会の変化に合わせて、メインとなる「問題」が変ります。20世紀の中頃までは、梅毒(黴毒)や結核を筆頭として、感染症にたいする対策が医療の中心問題でありました。しかし、21世紀の現代は、いちぶに例外はあるものの、感染症なぞ、おそれるに足らずとしております。現に、平成21(2009)年には日本中でマスクを着用する人びとが大量発生し、新型インフルエンザの「脅威」について、から騒ぎを起こしていましたが、今となっては誰もあんな騒ぎがあったことなぞ、キレイさっぱり忘れ去っております。医療は、行政サーヴィスの一部であり、医療に費やせる財源は限られておる以上、現代における医療の「主要問題」はなにか、見識ある人びとは、それを知って、大局的視点に立つことが求められています。

74年前の敗戦以来、平和が保たれた日本は世界一急速に高齢化が進行している社会です。国際的に65歳以上の人は「老人(高齢者)」と定義される例ですが、この人口が総人口にしめる割合はすでに20パーセントを超え(平成17年)、平成30(2018)年9月の統計では実に28.1%に達しています。
「超高齢社会」です。


総人口に対する高齢者人口の比率が7パーセントを超えた社会を「高齢化社会」、14パーセントを超えた社会を「高齢社会」と定義する例である。日本が「高齢化社会」に突入したのが昭和45(1970)年、「高齢社会」に達したのが平成6(1994)年で、こんなハイスピードで高齢化が進んだ国は世界広しといえども、日本だけ。「超高齢社会」の定義はじつは未だないが、世界でナンバーワンの日本がそれに該当することは間違いがない。

 

いままで世にあふれていた若さは貴重なものとなりつつあります。

死ぬ時はみなさん「ポックリ逝きたい」などと言いますが、血圧を下げる薬やコレステロールを減らす薬、血液をサラサラにする薬はシッカリ飲んでいるわけですから、そうそう都合よくポックリとは死ねない相談です。

本当にポックリ逝きたければ、そのような薬はキッパリやめるべきですが、みなさん、やめる気配はないので、ナルホド、みなさん、長生きするわけです。

しかし、その先に何が待っているかというと、まづは、がんです。

昔、おんなはお産で死にました。

おとこは戦に斃れました。

「男の兵隊、女のお産」という言葉が戦前にはあったくらいです。

栄養不良で死にました。

江戸の昔から、疫痢やら、腸チフスやらで、多くの人がおなかをこわして、死にました。

そして、結核で死にました。昭和25(1950)年の死因第一位は、結核です。

死は常に生と隣り合せに存在していたのです。

戦後、豊かな社会を反映して、衛生環境や栄養が改善されたうえ、ストレプトマイシンやINHなどの抗生物質が発明されたために、結核で死ぬ人はめったにいなくなり、その結果、ひとは「還暦」(60歳)を超えてまで、長生きできるようになりました。

「古来まれなり」と唐代の詩人杜甫(712―770)がうたった「古稀(こき)」という70歳の別名は死語となりました。

そうして初めてひとはがんで死ぬようになったのです(中川恵一)。

がんを撲滅しようという人がいます。しかし、気は確かなのでしょうか?

がんは確かに病気ですが、老化のひとつの現れでもあります。そして、生きものはすべて死すべき運命にあります。どうして人間だけが例外なのでしょう? 

がんで死なない人は、心臓病や脳卒中、ツマリ、血管の病気で死にます。

栄養が足りるようになって、糖尿病に罹患する人が増えました。

もともと、ヒトは太古の昔から飢餓窮乏に耐えるように生れついています。現代の栄養過多が糖尿病に罹患する人を増やすのは、理の当然でしょう。

みなさん、中高年になると、むやみに気にしだす血圧は、加齢と共に上昇するようにできています。動脈硬化はすでに20歳代から進行しているためです。

糖尿病と高血圧は、動脈硬化を基礎とする血管障害の二大危険要因です。

冠状動脈梗塞による心筋梗塞に代表される心臓病と、脳卒中(脳出血、脳梗塞、くも膜下出血)は、人の死に直結します。

日本をふくむ先進国の3大死因といえば、①がん、②心臓病、③脳卒中であり、これらは確かに病気であるが、いづれも老化の一側面でもあります。

私が長く病院勤務医として働いていた秋田の地は、むかしから脳卒中を極端におそれる土地柄で、みなさん、「中(あた)りたくない」一心で、せっせと血圧を下げるお薬をのみ、寝しなに水も忘れず取っておられます。

そうして、心臓病や脳卒中を予防し、これらの危険をかいくぐってきた人たちを待受けているのが、肺炎です。

昔から「肺炎は老人の友」という言葉があるくらいで(ウィリアム・オスラー卿)、イギリスの小説『チップス先生、さようなら』(1934年)でも、老先生チップスは、主治医から肺炎(およびそれに合併する心不全)の危険を心配されています。

しかし、現代においては、ペニシリンから進化を遂げてきた最新鋭の抗生物質があります。肺炎なぞ簡単に退治します。「やれやれ、また命拾いしたよ」という声が日本中で漏れ聞こえています。

がんにもならず、心臓病にもかからず、脳卒中でも倒れず、肺炎にも負けない老人の「友」はいづこにありや?

こうしてむやみに長生きした末にかかる最後の病気が、じつに認知症(痴呆症)なのであります。

痴呆を呈する認知症で過半を占める疾患が、アルツハイマー病です。

なぜひとはアルツハイマー病にかかるのか?

そんな問いは、訊くも愚かというものでしょう。

単にひとが長生きするようになったからだとしか言いようがありません。女性が認知症になりやすいとかいいますが、単に女性のほうが一般に男性よりも長生きするからに過ぎません。

みなさん、「死んでも呆けたくはない」とこれを恐れていますが、残念ながら、長生きそれ自体がアルツハイマー病の発症リスクを高めているのです。

また、かさねて残念ながら、これを根本的に治す薬もありません。あるように思われている塩酸ドネペジル(商品名アリセプト)などの薬は、単に進行を遅らせるだけのものです。

アルツハイマー病は、母子保健制度が充実し、戦禍がなく、クリーンで、豊かな先進社会が生み出した最後の「病気」といえましょう。

いわば「平和病」です。

このアルツハイマー病に代表される認知症が、現代、精神科において主要な疾患となりつつあります。



痴呆とは、老人を侮蔑する響きがあると、「認知症」と言いかえられたのが平成16(2004)年12月です。老人という言葉もけしからぬと「高齢者」といつからか言いかえられています。「後期高齢者」という言葉が批難されたのも記憶に新しい。しかし、これらは、みんな若いままでいつまでも生きられるとでも思っていなければ、到底出てこない愚かしい不満というべきです。自然の摂理をわすれるといつかバチが当ると思います。


参考文献
1) 大内尉義「日本の高齢化の実態と高齢者医療の考え方」日本医事新報4539号45頁2011年
2) 下方浩史「高齢者の疾病。疫学、臨床的特徴」日本医事新報4544号42頁2011年
3) 日本老年医学会編『老年医学テキスト』(改訂第3版、メディカル・ヴュー社、2008年)
4) 高田里恵子『男の子のための軍隊学習のススメ』(ちくまプリマー新書、2008年)
5) 永井荷風『濹東綺譚』(新潮文庫)24頁

お雪に逢ってはじめて玉の井の家に上がったくだり。
「この辺は井戸か水道か。」とわたくしは茶を飲む前に何気なく尋ねた。井戸の水だと答えたら、茶を飲む振りをして置く用意である。わたくしは花柳病よりも寧ろチブスのような伝染病を恐れている。肉体的よりも夙くから精神的廃人になったわたくしの身には花柳病の如き病勢の緩慢なものは、老後の今日、さして気にはならない。


6) Reibman J, Lennon T. The Writer’s Voice: Tuberculosis in the Arts. in Rom WN, Garay SM(eds.) Tuberculosis 2nd ed. Lippicott William & Wilkins, Philadelphia, 2004, Ch.1

ここには、結核に斃れた世界の作家や画家、音楽家、俳優のリストがあがっているが、印象的な事実は、その多くが60才に届かず、亡くなっていることである。


7) 中川恵一『がんのひみつ』(朝日出版社、2007年)

肩肘はらず、がんによる死を、みなさん、受け容れましょうと説く、東大病院の緩和ケア診療部長を務める医師の書いた本。わかりやすい。何が現在の医療を困難にしているかと問うて、それは病気それじたいではなく、国民における死生観の欠如だと直截に断言している好著。日本人が、がん、がんと騒ぐようになったのは、単に、がんで死ぬほどに長生きできるようになったからにすぎぬ。それを病的なまでにおそれるのは、日本人が永遠にいつまでも生きている錯覚に陥っているためだと直截に明言する。


8) ジェイムズ・ヒルトン作、菊池重三郎訳『チップス先生、さようなら』(新潮文庫、1956年) 7頁

老教師チップスはときどき往診にやってきてくれる主治医から肺炎、それに引続く可能性のある心不全を心配されている。しかし、チップスが風邪をひいたり、東風が沼沢地方を吹きまくる時があると、メリヴェイルはウィケット夫人を玄関まで連れ出して囁くことが、時々あった。
「気をつけてあげてくださいよ。胸部が…参っちまったらお終いですからな。いやあ、どこといって悪いところは全然ないのだが、年が年だし、しかもそいつが命取りになるという極めて厄介な奴ですからな…」
年が年…まさにそのとおりだった。

 

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