文人をたづねて 2

 

東山七条。威風堂堂、京都国立博物館。

文人といえば、お酒もたしなみますが、お茶の愉楽も欠かせません。

文人のモデルは、中国朝鮮の科挙官僚。「万巻の書を読む」のも、一握りのエリートを選抜する科挙の試験に合格するためです。「万巻の書を読み、万里の路を往き」、広い識見を培った人が統治の任に当る、これが儒教政治の理想でありました。文人に四友あり、それが筆、紙、硯、墨で、しごとに必要な身ぢかな道具です。文人は当然能筆の人で、字がへたくそな人は文人失格です。

筆をとる仕事をしているからには、当然画にも一往のこころえがあり、求められれば何食わぬ顔をして、すらすらと興趣のあるものを描けなければいけません。

行政のしごとに倦み飽いたひととき、文人がこころを休める趣味に、文房の四囲の庭にある花樹とそこに聚まる小禽をえがく花鳥画がありました。或は市中塵埃のわずらわしい現実世界からひとときの逃避を図り、とおく仙境の清浄地にこころ遊ばんと描く山水画(南画)がそれです。山水画をながめるお供に、清風をもたらすお茶(煎茶)は欠かせぬ飲物でした。

日本に、科挙に相当する政治制度は、明治のご一新まで存在しなかったので、江戸時代、日本に正式に文人とよべる人はいなかったわけですが、学問をしたり詩文絵画など風流韻事にあそぶ人たちの、中国朝鮮の文人の生活趣味への憧れはたいそう強く、寺子屋や藩校で四書の素読をうけ、漢詩のひとつやふたつは朝飯前という江戸中期から幕末の知識人たちは、みな煎茶の趣味をもっていました。

明治以降の日本の知識層が洋風かぶれで、森鷗外、永井荷風など文人墨客が半分ヨオロッパ人を気取っていたように、幕末までの日本の知識層はみんな中国かぶれで、半分シナ人だったといっても決してまちがいではありません。

お茶をひろく東洋的趣味生活のひとつと、正しく位置づけている茶舗に、東山七条にある清水一芳園があり、ここではめづらしく台湾の凍頂烏龍茶や木柵鉄観音もあつかっているので、「ああ、これがほんものの烏龍茶なのだなァ」と感嘆したその美味をふと憶いだしたとき、ここに買いに行きます。

過日はその帰り、ちかくにある京都国立博物館の前をよぎりましたら、「斉白石展」をしていました。不明にもはじめて名を聞く人で、これも勉強とふらり立寄りました。

斉白石(1864-1957)という人は、中国人なら知らぬ人はない文人画家だそうで、作品によっては百億円を超えるねだんがつくそうです。

老いた風丰はいかにも「中華の文人」という穏和さが漂っていて親しみがもてました。絵は、いったいそんな高値がつきそうなものなのか、ねうちをはかりかねましたが、文人画は、もともと素人の余技なので(うますぎてはいけない)、「人民芸術家」の作の余りの法外な高値には、毛沢東と同郷だったとか政治的背景もあるのでしょう。

時間があまりなかったので花鳥画を主にながめましたが、蝦や魚の絵には元気がみなぎっており、スッときもちがよくなりました。「魚は、自由にいきる文人の象徴として」うんぬんの説明文に、なるほどと知識をひとつ増やしました。ひとつ、私の「買いたい」慾を誘った作品は「桃花源図」(1938年)で、発色うつくしく、ゆめの理想郷にいざなうに足るものでした。

斉白石をふくめ、ふるくは日本の池大雅(1723-76)など、南画(東洋画)をまなぶものは皆が熱心に参看したものだが、大正のいまとなっては読む人がないと富岡鉄斎翁が嘆いたという清代の入門書『芥子園画伝』が、ミュージアムショップにあったので一冊もとめました。これをまねて山水花鳥画を描くと、しろうとでもすばやく上達すると、日本史の先生でゆうめいな磯田道史氏も驚いたという一冊です。

私も小閑をぬすんでこれを手本に画を描いてみようかなとたくらんでいます。

 

 

関連記事

  1. 五所川原へ

  2. 石水博物館

  3. 文人をたづねて

  4. 日本の中の中華文明

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

このサイトについて

京都市中京区蛸薬師 四条烏丸駅・烏丸御池駅近くにある心療内科・精神科クリニック「としかわ心の診療所」ウェブサイト。診療所のこと、心の病について、エッセイなど、思いのままに綴っております。
2024年3月
 123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

カテゴリー