思い出の映画(1)

かくてイエス、その十二弟子を召し、穢けがれし霊を制する権威をあたへて之を逐ひ出し、もろもろの病もろもろの疾患わづらひを醫いやすことを得しめ給ふ。(マタイ伝第10章)

『新約聖書』はふしぎの書物で、孔子が怪力乱神ヲ語ラズと云ったのとは対照的に(『論語』述而第七)、概ねそういうことばかりが書かれてある。死後にイエスが復活したとはその最たるものである。京都には「復活幼稚園」という名の幼稚園があって、むかし息子はまだ五歳のころタクシーの車窓からその幼稚園をみつけて、私に「復活とはなにか」と訊くので、イエスの復活の話をしたら、色を変えて「そんなことはあるはずがない。ここはお墓幼稚園と名前を変えるべきだ」と断言したのを、可笑しいと同時にその生れながらの合理主義を頼もしく思ったことが思い出されます。

この聖書の記述から、聖書学者のなかには、イエスたちは、史上初の精神科医師団だったのではないかという説を立てている人もあります。そうあってもふしぎはなかろうと私は考えています。ローマ・カソリック教会では、現代もなお、悪魔祓い師(エクソシスト)を養成しているそうです。

映画『エクソシスト』が日本で公開されたのは昭和49年(1974年)。怖いもの見たさに当時8歳だった私も叔母に連れられて、悲鳴が響き渡る映画館に足を運んだ記憶があります。「怖いシーンは叔母さんが目隠ししてあげるから」と、なんのために恐怖映画を見に行っているかわからない「保護」を受けて鑑賞したものです。

しかし、この映画には単純な「恐怖映画」とは異なるふしぎの魅力があって、私はその後の人生において、折に触れてくりかえし鑑賞してきました。ウィリアム・フリードキン監督は「善と悪との対決」「信仰の秘密」などがテーマなのだと言っていますが、かなり宗教にひき寄せた説明で、私にはよくわかりません。私は端的に「現代社会における不信」について考えさせられる映画だと、取っています。

この映画にはさまざまな「不信」が全編にちりばめられています。主人公の少女リーガンの母クリス・マクニールは映画女優で、学園紛争をテーマにした映画に出演しています。学生たちが集まって大学当局に抗議する場面が冒頭で出てきます。リーガンの父母は別居しており、娘の誕生日に電話一つ寄こさない夫を口汚くののしる母クリスの姿にリーガンは心を痛めます。母は主演している映画の監督、バーク・デニングスにきもちを寄せているようで、ただの友人よという母の嘘にも心を痛めています。映画の撮影が終わったホームパーティーの席でデニングスは酔いどれ(どうやら孤独の害毒から来たアル中のようです)、女優の執事たるスイス人、カールに「お前は元ナチス党員だろう」としつこくからんだりします(デニングスの名はユダヤ系を示唆している)。のちに少女の悪魔祓いで助手を務めるギリシャ系のデミアン・カラス神父は、ハーバードやジョンズ・ホプキンスなど米国の一流医大で精神医学を学んでいるのに、神父であるがゆえに経済的に恵まれないまま(叔父には、お前が精神科医として開業してさえいれば、母をこんな貧乏な目に逢わさずに済んだんだと嫌味を言われて傷つく)、ニューヨークのウェストサイドの古びたアパートで孤独な日々を送っている老母に満足な医療をあたえることができず、亡くしてしまい、信仰に絶望しています。この映画の中で最も強烈な「不信」は現代医学にたいするもので、悪魔の憑依した少女の異変の深刻さを直視せず、側頭葉てんかんが原因だからと頓珍漢な診断に固執したうえ、むだな検査や鎮静剤注射という狭い視野からのアプローチしかしない医者の無能さがうきぼりにされています。

フリードキン監督のドキュメンタリー・タッチの撮影は、「楽園」などない、ざらついた現実をリアルにとらえると同時に、光と影の陰翳を明確に意識して、絵画的に美しい映像をまじえるのが、この映画の魅力のひとつでもあります。恐怖と美は共存するのです。映画ポスターにもなったメリン神父が悪魔祓いに来訪した上記シーンは、監督が美術館で見たルネ・マグリットの『光の帝国』からインスパイアされたそうです。ほかにも、尼僧の白い僧衣が風に大きく靡いて膨らむ秋の日のジョージタウンの街並や、魔よけのメダルが落下するカラス神父のゆめのシーンの美しさも忘れられません。またなぜか、DVDでも言及されることがないのですが、悪魔のとりついたこの少女の屋敷が、小体こていながらも、正当にヨーロピアンなスタイルを守って、家具・調度が、繊細、端正でじつに美しいのです。(執事とその妻を使用人に置いているくらいですから。車はメルセデス)

この映画のなかではマリア像が悪魔のしわざのせいで汚されるのですが、カソリックはマリアさまを信仰しているのですね。これはなぜかというと神様に直接祈るのでは不躾なので、神様へのとりなしを間接的にイエスの母を通して依頼するという意味です。奥ゆかしいのです。しかし、キリスト教にはカソリックとプロテスタントの二派があるのに、どうして少女レーガンはカソリックの神父の来訪を受けたのでしょう? この答は母の名にあります。母の名はクリス・マクニール。アイルランド系なのですね。だからカソリック。このことについてはわが不明ゆえに、ようやく最近きづきました。またプロテスタントではそも悪魔など存在しないのだそうです。この映画の舞台になった美しいことこの上ないジョージタウン大学はイエズス会の大学ということです。なるほど。

精神科医療では、この悪魔祓いのごとく、いまだに徒手空拳で戦うという側面があります。きみのわるいタイプの統合失調症患者に外来でつばをはきかけられた経験が小医にはあります。メリン神父のごとく、私は静かに耐えました。この映画は、精神科医にはなお考えさせるものが多いと小医は思っています。映画のさいご、悪魔をじぶんに憑依させて、いわば「自殺」して少女を救う、カラス神父は、傷つきやすい人です。医学も修めた人物であれば、痴呆の母の最期がやや悲惨になるのも覚悟のうえかと小医には思われるのですが、その愛情深さを悪魔に見透かされた神父はたやすく心を乱されてしまいます。「不信」や絶望が渦巻く世界。そのなかで避けがたい「にんげんの弱さ」、傷つきやすさ。人生の苦境にいかに対峙するか。精神科医療と宗教は根っこが同じなのかも知れないと思わされるのが、悪魔祓いの経験がないカラス神父に助言するメリン神父の次のセリフ。

特に重要なので警告したいことは、悪魔との会話を避けることだ。必要最低限のことを超えて会話を交わすのは危険きわまりない。だから、聞くな。悪魔の声にけっして耳をかたむけてはならぬ。このことを胸にきざめ。

人の相談に乗って「病む」人があります。これは小医が診察室で幾人もの患者さんからくりかえし聞いて確かめたことなので、動かぬ事実といってよいでしょう。乗った相談の「ネガティブ」な内容が、聞き流されずに、ぜんぶお腹の中にたまってしまう人です。そういう人は絶対に人の相談に乗ってはいけません。聴いてあげる人の「善意」を食い物にする我利我利亡者というのが、この世にはいます。商売がら私はそういう人たちを幾人も知っています。ぎゃくにいえば、精神科医は要点だけ聞いて、あとは全部聞き流せる才能があるので、仕事が勤まっているのですね。寛大というべきなのでしょうか、それとも、冷血というべきなのでしょうか?(笑)

 

 

 

 

 

 

 

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