病気の説明 13

病気の説明・各論11

自閉スペクトラム・注意欠陥多動症 (AS/ADHD) 2 

1 未完のプロジェクト

発達特性について、まともに書かれた医学教科書がないようなので「乃公(だいこう)、出(い)でずんば」と俗気を興し、本でも書こうかと野心を燃やして夏ごろに「序言」だけ書いてみた。自分で言うのもなんだが、格調高い名文だと思うので、勿体ないから、以下に再録しておく。

序言

 本書を『京都発! 「発達特性」診断法 実践編』と題する。

 私は京都市中京区で心療内科・精神科の看板を掲げている一開業医である。

 「実践編」とは藪から棒に、勇猛果敢な響きを有するが、対応する「基礎編」が固よりある筈もない。基礎など知ったことか、なぜなら臨床とは「実践」あるのみ。とは、実地医家が臨床医としての人生の第一歩から身に染みてとことんまで叩き込まされている教訓であろうから、本書は「発達特性」を診断するために明日から直ちに役立つ実践的知識を惜しみなく提供するものである。大学教授連のする隔靴掻痒の与太話とは、最初からスタンスを異にしている。「証拠evidence」などなくても、「経験experiences」と実例にもとづく確実な診断法を伝授したい。

 精神科医療は決して難しくなどないし、「所見findings」を一つひとつ蒐める内科的診断と少しも変りはないことを本書で示す。

 「発達障害」とかいう言葉が、世間に突如流行をし始めて20年、戸惑っている実地医家は今も少なくない筈である。一般内科外科ならいざ知らず、専門家たるべき心療内科医や精神科医においてすら、それは一体なんのことだいと知らぬ顔の半兵衛をきめこんでいる御仁も、正直におっしゃいなさい、少なくはない筈である。

 「傾聴」とかいう便利なことばが、精神科領域にはいつからか存在していて、わかろうがわかるまいが患者のことばを「フンフン」と犬みたいに聞いたフリしてさえいればそれだけで医者の顔をしていられる幸福な時代が長く続いたものだから、精神科医は不当な利得をえてきた。だから発達障害診療はあたかも「黒船」の到来なのだと言った医者がある(宮岡等)。蓋し名言であろう。しかし気づくのがチト遅すぎやしなかったか?

 勉強熱心な患者が「私はADDと思うのです」という言葉に「ADHDね」と余計な半畳を知ったかぶりして入れてみたり、就職に失敗続きでしょげているわかものに「ナニ、青春に挫折はつきものだ、ワッハッハ」と一笑に付してごまかした精神科医がいることを、私は受診者の証言を通してじかに知っている。「DSMによるとASD」とか機械的に言われただけで得心がいかなかった患者さんに、これこれ、かくかく、しかじかの所見があるからそうだと思うと短くない時間を割いて説明をしたら、なみだをこぼして小医に謝意を示された例がある。患者自身にも覚えがあるから来院しているのである。そのことの深きを思え。発達特性診断に時間と労力を惜しんではならない。噛んで含める様に言ってやる必要があるのである。患者は保護者依存性が高い。「こども」なのである。もっとも、自身に覚えなく来ている連中はかえって逆恨みするから、これには一定の警戒が必要なのだが…。

 発達特性の診断にはいわゆる「積極診断」が必要である。医者の側で疑って、積極的にあれこれ患者さんに質問をする必要があるのである。あれはないか、これはないか、甚だたくさんの質問を精神科医のほうで用意しておく必要がある。なぜか? 患者さんに自立的説明能力、自己分析能力が甚だ乏しいからである。重ねて言う。発達特性の「本質」は何か? 自立性に乏しいことである。精神科医は受身にずっと慣れてきたから、こういう内科では当然の問診方法を、徳川の泰平よろしく、ながく失念してきたのである。精神科医は、なるほど、内科落第医師であるといっていい。

 私はいたって世間知らずで、世の中の流れは患者さんを通して窺っているにすぎない甚だ心許ない存在である。しかし偶々、京都は中京という、古き新しいみやこのどまんなかで開業をして、またとない貴重な臨床経験をこの一年余で豊富に積むことができた。私はアメリカ産のDSMなどは唾棄しており、一瞥もしていない。ふるきよき西丸四方先生の教科書を愛読玩味し、笠原嘉先生を欽慕し、古茶大樹先生を通してドイツはフランクフルト学派の精神医学に殉ずる「古学派」とさえいっていい。「古学」とは、ふるく江戸時代の伊藤仁斎先生以来、長く京都の十八番で、ふしぎな因縁をひそかに感じている。開業一年余のつたない経験ではあるが、この臨床経験は、医者となって十年余小医の心中に集積された無数の「?」を一気に氷解する経験であって、この経験は、多くの開業実地医家に共有されて損はないものと信じている。

説明のスタイルはくりかえしになるが、はなはだ実践的であって、一般書のごとき凡たる記述とは一線を画している心算である。いやしくも「にんげん」を相手にする精神医学の教科書であるならば、毒をも含んで、興味ぶかく読める様に、かくなるものであるべきだと小医が考えるものを書いてみた。本書を批判したい人はおそらく山ほどあろうが、賛同してくれる方も同じほどはあろうと思うので気にしていない。私は理屈をいっているのではなく、患者の声を通してまとめあげられた事実を述べたつもりである。

平成30年7月吉日 著者識

2 イントロダクション

精神科医になって、ICD-10とかDSMという本があるというので、手に取って、頁をぱらぱら繰ってみたが、「これは、にんげんが読む文章ではない」と思い、本をパタンと閉じて爾来それぎりとなっている。中井久夫先生は、わかいころ、眼科医になろうと思って、気に入った英語の教科書を熟読玩味したという。その英文には「コクがあった」といい、私はこの言い回しを長く徳としている。

カルテ(サマリー)を書けば書くほど(ただし、きちんとしたもの)、精神科医の腕はあがると笠原先生はその著書に記している。これは本当のことだと小医は常づねそう思っているのだが、文章を書く力が精神科医の財産であるならば、精神科医の読む本が滋養に富んだ文章でなければならぬことは蓋し当然であろう。官僚の作文みたようなばかげた文章は、精神科医のせんさいな神経には致命的な毒になるばかりなのだ。だから、それらの本に書かれた自閉スペクトラム症(ASD)や注意欠陥多動症(ADHD)の診断基準をここに引こうとは些かも思わない。

もう少しましに書かれたものを引こう。ある本の教示によると、ASDの基本症状は「社会性」「コミュニケーション」「イマジネーション」これら3つの障害なのだそうである。それに加えて「感覚過敏」という問題があるのだと言う。

最後のものは、大きな音が嫌いだとか味にうるさいとか光やにおいに過敏だとか、医者にはすぐにピンとくる話でわかりやすい。しかし、前3者につき、これを「わかりやすい区別だ」とまでいう医者は、本気で言っているのか?

対人関係のなかでそれらはつねに三位一体をなしているのであり、社会学か何かの講義のように御大層に三分されても、私のようにわるい頭の中では、それらはごっちゃになってしまって、すぐに区別がつかなくなる。だから、聞くだけむだなのである。製薬会社が主宰する「発達障害」講演会の催しで、町医者も集まり演者の話に耳を傾けているが、いったいどれだけの人がほんとうに得心しているのか、あやしむことがある。

ほんとうに臨床にやくだつ情報は、プロトタイプ(原型)たるべき患者全体像のまっすぐな提示である。それならいくらできの悪い医者だって、聴いてよくわかるだろう。内山登紀夫医師は、ローラ・ウィング先生の書いた論文にまとめられた6症例の記述をまづは読むべきだと正当にも指摘し、大いに期待して私も読んでみたが、それだけで明日からの臨床に直結する即効性が得られるとは到底おもえなかった。

発達特性者の全体像を提示するためには、日本の外来臨床の現場に即して、もっともっと詳細精緻な記述が必要なのである。これまでに診てきた症例を手間ひまかけて、分類整理するなかで、ようやくかたちをとりはじめた診断のための「目のつけどころ」と小医が考えたものを、「特性診断ハッシュタグ」と名づけて、次節にまとめている。

つぎにADHDの診断基準はどうなっているのだろうか? これは「不注意」「多動」「衝動性」の3症状なのだそうである。ASDとちがって、行動として目に見えやすい、いわば「外的な」診断基準なので、ASDよりも診断のためには「わかりやすい」症状と、一見にはいえそうである。しかし、内山登紀夫医師と宮岡等医師が対談で述べているように、大人のADHDをみぬくのは、実はたいそう難しいのである。これには小医も全く同感で、無数の見逃し例が存在しているように思われる。

どうしたら見抜けるか?

ためしに、対人緊張や対人過敏を主訴とする、いわゆる「社交不安症(SAD)」の若い娘には、ルーチンでADHD(ADD)を疑うことが有益であろう。医者からルーチン・ワークとして積極的問診をするだけでよい。高い確率で所見を検出できると小医の経験上予測する。この発見じたい、いかに精神科医が怠慢の上にあぐらをかいてきたかを示す好例と思われる。

あとでも説くが、ADHDの本質は、したいことには飛びつくが、したくないことは絶対にしないし、興味のないことにはピクリとも反応しない「わがままさ」にある。或は、ほめられると調子に乗るが、けなされると極端にへこむ「幼稚な正直さ」に。人のために何かしてあげる気のいい人である。しかし傷つきやすさがある。部屋がかたづけられないとか、忘れ物が多いとかは、ADHD者の人がらの「本質」をつかむためには、いわばどうでもいいことである。

現在の医学書の問題点は、ASDにせよADHDにせよ、話を聴いただけでは皆目よくわからぬDSMの「診断基準」の話ばかりをまづは先行させている点である。ASD/ADHDをどうやって「見抜いていくか」、診断の手順にかんする具体的な方法論がすっぽり欠落しているのである。別のことばでいえば、くりかえしになるが、AS者ないしADHD者の「本質」、「全体像」の提示がないのである。

だからいまだに「発達障害って何? 俺にはよくわからないよ」とほざく年寄の精神科医の数が減らないのだろう。しかし、老医のためには斟酌すべき事情もあって、発達特性を見抜くには、総数で100例程度の経験では到底だめで、1000例前後の数の症例を日々たえず経験している必要があると小医には実感されるのである。診察で確認すべき発達特性サインやヴァリエーションが濃淡をなして、たくさんあるため、それほどの数は要るのではなかろうか? 本書がこの医者一人ひとりにかかる「要症例経験数」をへらすことに貢献できれば、幸いといえる。こんな手間ひまのかかる労作をものずきにも物そうと思った小医の動機はひとえにこの一点のみである。発達障害が巷間で話題になってから20数年は経っているのに、誰も基本中の基本たるべきことを、もじもじして書かない様にみえるので、小医のなかの天邪鬼が、いらぬ蛮勇をふるわせたのである。

内山登紀夫医師によれば、何が「発達障害」で何がそうでないのか、何がASDで何がADHDなのか、いわゆる専門家を自称する学者れんぢゅうの間でも意見は広狭さまざまに岐れており、げんみつにはよくわかっておらない部分があるそうである。脳科学が相当進歩しない限り、これからも当分よくわかるまい。しかし、多数例を診察してきて、日々の臨床観察からだけでも、これは「発達特性がある」「いや、(今の診察時点ではまだよく)わからない」と線引できるびみょうな「輪郭」は、実在するように思う。

だれがどうみても発達「障害」といえそうな人だけを、限定的に狭くASDとかADHDと言ってみても始まらない。需要は、「障害」者とハッキリそう呼ぶには躊躇されるゾーンにある人に多いのである。そうした「特性」者のなかにある「微妙な濃淡」を探ることこそが、町医者のしごとであり、「神経症」臨床だと小医は考えている。

これを蝕知する臨床的「勘」(統合失調症にたいする「プレコックス感」のごときもの)を養成することには、メリットがある。患者がおこすさまざまの症状、具体的には、不眠、パニック発作、心気反応、抑うつ反応、社交不安(対人恐怖、あがり症)、etc.の理由と背景が「発達特性」に由来するものとして、ハッキリとみえてくるのである。たんに「パニック障害ですね、ハイ、薬」「うつですね、ハイ、薬」「原因はよくわかりません」と患者ににべもなく伝えるだけのやぶ医者ではなくなるのである。

最近の話題で笑止千万と思うことはASDとADHDの合併がそれまでは認められなかったのに、DSM-5では認められたとかいうことである。「ASDとADHDの合併率は高い」とか低いとか、そういう表面的なことをうんぬんしているのが医者の態度とは、私には到底思えない。臨床経験上、ASとADHDは一往区別するものと仮に措定するとして、この両者がいったい「いかなる関係にあるのだろうか」ということに思いを馳せるのが医者の態度ではないかと私には思われる。私見では、この両者は、あたかもDNAの二重らせんのように絡まり合っているものと思う。これは幼稚な私の空想ではなく、患者家族の家系図にそういう空想を誘うパタンがあるのである。無口でまじめでおとなしいAS父と感情の起伏はげしい「要らんこと言い」でデリカシー不足気味のADHD母のあいだに生まれたおとなしいAS娘は、ADHD母と相性が悪いくせに、ADHD素因のありそうな自由気まま男と結婚して、離婚する、といった例は、枚挙にいとまない。DSMは原因を問わないシステムだといえばそれまでであるが、「原因を問う」ことが医学的(学究的)態度であるとすれば、その姿勢を放棄しているDSMは反臨床医学マニュアルとしか言いようがない。

発達特性診断については、DSMの記載に頼らずとも、たしかな観察とたしかな所見の蒐集によりこれを行うことができることを以下に示す。

参考文献

宮岡等、内山登紀夫『大人の発達障害ってそういうことだったのか』(医学書院、2013年)

宮岡等、内山登紀夫『大人の発達障害ってそういうことだったのか その後』(医学書院、2018年)

Wing L : Asperger’s syndrome: a clinical account. Psychol Med 1981:11:115-129

3 特性診断ハッシュタグ

(これこそ正に「未完のプロジェクト」で、とりあえず今思い当る分だけ書き出してみた。後日、さらに補足を予定する)

#見た目、雰囲気からしておかしい(唯美的衣装 アシンメトリー服 黒づくめの服)

#アート好き 絵を描くのが好き アニメずき 音楽ずき

#入室時戸を閉めない

#インド人やエジプト人を連想させるダークな顔つき

#女の男顔 

#男の女顔 

#ナヨナヨ男子 

#お人形さん美人、アンドロイド女子、さわやか男子 

#エキセントリック系 

#元気印シティーボーイ 

#表情が大げさ 

#露出度マックス女子

#光のない黒目がべったり 

#表情乏しく何を考えているかよくわからないカオ 

#猫の目

#めぢから強い

#まる目女子

#医者に目線を合わせない

#視線の挙動不審(三白眼、上三白眼、四白眼、左右上下への寄り目、回旋)

#高学歴女子  

#怒ったようなカオ 

#ギスギスした感じ 

#びみょうに髪がうすい

#不愉快な人びと

#ヘンなイントネーション フラットなしゃべりかた #過剰敬語(~させていただく) #ため口を利く #合いの手の口癖(なんだろう? そうですね etc.) 

#奇妙な言葉遣い(…はご存知でしたか?) #堅苦しい話し方

#話し出すととまらない 「会話」ができない

#仕事でミスが多くて叱責される、職場でいやな人がいるので気落ちするとかいった主訴

#家族の精神科受診歴(抑うつ反応としての「うつ」、統合失調症、躁鬱病、パニック神経症) 

#両親の仲と学歴、職業(離婚、学校教師、公務員、システムエンジニア、医者、法律家、経理・税理・銀行職、水商売)

#両親の年齢と生年月日 

#小中高大における不登校

#ホモセクシャル、レズビアン、性的倒錯 

#女の女ぎらい(ガールズトークが嫌い;性格男子) 

#男の男ぎらい(マッチョがいや:性格女子、のび太君)

#さまざまな局面における過敏性

#母子密着 

#他人への依存性

#ブラックユーモアを好む 

#奇妙な理想をもっている 

#納得がいかないことにガンコ

#自殺願望、哲学派 

#卒論が書けない

#自傷行為(ピアス、刺青、リストカット、抜毛、爪かみ、皮膚めくり、大量服薬、過食嘔吐、下痢、性的乱脈)

#職場の雰囲気(人間関係の構図)に弱い

#自分がわからない・自己内省力のとぼしさ

#A(原因)→B(結果)の説明ができない:Bのみ医者に伝えればAは医者のほうから教えてもらえるものと勝手に得心している

#いつまでもぐずぐず話す

4 AS, ADHDについての簡単なイメージ

AS(自閉スペクトラムAutism Spectrum)とADHD(注意欠陥多動症 Attention Deficit Hyperactivity disorder)には、世間巷間で流布されているイメージがある。医者のあいだでもDSMなどを参考に、いろいろ出ているが、小医は今一つ納得できていない。なべて表面的すぎるのである。根本にあるものが何か、探究しようとする姿勢が欠落しているのである。だから得心するに足りない。発達特性者には必ずADHD的要素とAS的要素が複雑に入り混じっている。どちらの比重が多そうかで大雑把に言い分けているに過ぎない。下記は実地の臨床経験から東洋趣味にかたむきがちの小医が感じている諸要素の雑多な陳列である。読者の理解にいささかでも資するところあれば幸いである。

ADHD 太陽 元気 老子的世界 生命的・流動的 自我未成熟 わがまま ぐうたら 幼児的 医師 研究者 学者 芸術家 中小企業家 看護婦 介護士 保母 料理人 ホステス 他人の世話焼き 個人ベース 天下国家のことなどはわからない 性的にさかん じぶんの思い通りにならないと気が済まない(感情的) 若い 無作法 軽率

ちゃらんぽらん 進取の人 動く 単細胞 足を延ばし・ひっこめる したいことはするがしたくないことは絶対にしない 赤ちゃん 好き嫌いハッキリ 感情的 ほめられると有頂天になるがけなされるとたいそうへこむ 退却の人 両極端 物を残さない すぐに手元からなくす 浪費家

やりたがりなくせに傷つきやすい 単純まっすぐ 明るい 知的でない やんちゃ坊主 人がいい 自他の別がない 前向き 生活は成り立たない 誰か世話を焼く人(母親のような人)が要る あまえんぼう その日ぐらし どうにかなるさ 絶望 後ろ向き

刺戟に反応しやすい 視覚情報優位 聴覚劣位 耳で聞いたらすぐぬける 混乱しやすい 美的趣味あり 絵やマンガを描くのが大すき 

複雑な環境には適応できない パニック 自傷行為 わかりやすい単純な個人的関係を好む ここの「崩れ」がいわゆるパーソナリティ障害につながる(情緒不安定) 自殺しやすい 傷ついて「うつ」になりやすい 

AS 2.をはさんで大きく1.3.の2タイプがある。往々1.3.は混淆している。無機物的。

  1. 石 固い ロボット(アンドロイド) 周囲の状況から超然として「浮いて」いる 仙人 礼儀知らず 人や世俗に興味をもたぬかハスに見ている 世間知らずを通り越して偏屈 物分かりがよくない 反俗奇矯 ダンディズム(シャーロック・ホームズ、オスカー・ワイルド) 高等遊民(漱石) 大衆をきらう 貴族趣味 狷介孤高 かわりもの ひとりもの 他人はじぶんの領域の雰囲気やルールをみだす存在なので、容易に人を近づけない 親しい人とそれ以外で人間関係の落差が大きい(ごく親しい者の間での「清談」はこのむ) マイナス方向で固い自我がある いやなものはいや 新しいものを警戒して守旧的 プラス方向での自我は乏しい 頑固 時に激する 融通効かぬ 世間的に暗愚 没趣味(合理性、経済性、権利義務の過度の尊重)タイプもある 浮浪者・犯罪者となりうる可能性 マイ国家(星新一) マイルール最優先 「世間」の枠外の人(老荘的) 芸術家 芸人 学者 男のいわゆる男嫌い 女のいわゆる女嫌い 中性的 ゲイ・レズビアン(同性愛) バイ・セクシャリティ(同性愛・異性愛どちらも可能)
  2. 聴覚過敏 静謐をこのむ 平和と無事を愛する 上善如水 雰囲気に敏感 人の好き嫌いが実ははげしい 感覚過敏 何か守るべきものがあるため早々に危険を察知する マイナス方向のものを評価しない(人の悪口、不和に敏感で苦痛を感じる。人の噂話など、いかにも世間的な無駄話もこのまない) 美的趣味がある
  3. 空気 つかみどころがない(空虚) 制度(環境)依存的 老成している 「制度(建前)」ベース 客観性ベース 文字をこのむ 書物ベース 公平無私(私利私欲がすくない。私益より全体の公正調和を優先する。嫌いな他人をも公正に評価しようとする) 公に奉仕する 枯れている 性的に不活発 じぶんの理想とすべき通りにならないと気が済まない(規範的) 礼儀過剰(ハイカルチャー志向、美意識あり) 気どり きっちり 完全主義 受身保守の人 不動 変化を望まぬ 歴史(過去)を正確に記録する おとなしく静か じぶんからアイデアは出さぬ(出せない) 前例踏襲 なべてロジカルに正義に基づいてスマートに事を済ませたい 平和主義 粗暴な雰囲気を好まない 中国のマンダリン(科挙官僚) 公家貴族(煩わしいことは下々がすべて代行してくれる) 「世間」の枠内の人(儒教的) 公務員 教師 SE 銀行家 法律家 「役割」志向的 「過去」志向的 物を残そうとする だれか自分を庇護してくれる保護者(皇帝/将軍)が要る 意志決定は保護者まかせ 年上を好む 距離の近い同世代がきらい 将来(変化)を案じやすい 気位がある 「適当」ができない 一見「おとな」風(標準語的しゃべり、ペダンチックなしゃべり) シッカリしているように見えてなかみは幼い 猥雑な世間のなかでスレていない 現実と格闘する能力に乏しい じぶんが「規範」と考えているものからのズレ(現実)が心労の種になる  現実との適合性を無視ないし軽視する傾向 臨機応変な対応ができない 「要点」をつかむことが苦手で機敏な対応ができない 他人からの叱責・自分の犯した失態に大変弱く心理的に大きな痛手をこうむる わかものらしい熱い感情的表出が苦手 自己の感情表出を抑えるために「合理化」しようとして苦しむ(例、嫌いな人にもいいところを見つける) 責任感が強いのでかえって責任に弱いジレンマ 自己卑下傾向 メランコリー 生きている意味を問う 「じぶん」があるようで、ない 他人と対決できない 鎧のなかみはふわふわしている 自己イメージを形成しえていない 大雑把な記憶が少なく、すべて正確に想起しようとして却ってまとまらない わるい記憶が残りやすい 世をはかなんで自殺しやすい  変化の多い環境には適応できない 適応障害 パニック 心気症 ヒステリー 抑うつ反応 不眠症 気位派(傍観者的皮肉家/ユーモアのたのしみ/優美派)と即物派(きまじめ/ガチガチ頭で退屈/没趣味派)にわかれる
  4. ADHDASには、主観⇔客観 若さ⇔老い 動(両極端)⇔静(恒常) 自由⇔規範 感情的(躁うつ病親和性)⇔感情抑制的(統合失調症親和性) といった対立軸がある 医学的にも対比して首肯しうる点がある

5 診断の方法 実践編

精神科医の商売は人の顔を見ることにある。発達特性者は「表情がとぼしい」。もう少し正確に言うと、「その場に適切な感情や態度の表出を欠く」ということだ。待合でまっている患者を診察室に招じ入れる際に、そうした表情や態度があるかどうか? 小医が「顔をみればわかる」と言ったら、「それだけでわかるものか」となまいきにも文句をつけてきた産業医があって、啞然とさせられたことがある(それじゃ、おまえが診断しろ)。ツー・カーで即座に通じた産業医もあって、それには小医の方で一驚を呈した。宮岡等先生もいうように、医者に出来不出来の差は大きい。精神科医の間で大そう大きいが、それと同じくらいに産業医の間でも大きい。

医者が「どうぞお入りください」と呼びかけ、軽く患者に会釈しているのに、お愛想の表情ひとつも浮かべず、怪訝な顔や、ぶっきらぼうな顔をしていたり、怒ったような顔をしていたり、どこに目線をやっているのかと問いただしたくなるような顔の向け方をしていたり、あまりに医者を見つめ過ぎていたりすると、「ああ、あるな」と予測しておいてよい。

「あるな」というのは勿論「特性があるな」という意味である。「緊張していて」とか「考え事をしていて」とか「滅入っていて」言訳をする患者もあろうが、これを真に受けるのは禁物だ。

医学的診断は「ある」と極めつけて積極的に疑う姿勢で初めて「何か」が見えてくる。見えてこなければ仮定をひっこめるまでだ。ハナから疑わぬ姿勢では何も見えてこない。しかし、それで医者が医者のしごとをしているといえるだろうか? 「まっさらな目で見て」とかいうのは神話かマスコミが好むアマチュアの議論で、プロまでそんな意見に靡いていてはいけない。医者は善人であってはならない。「悪人の汚名」をひきうける覚悟のない医師は辻占と同等である。

あまりに愛想が良すぎる患者も禁物である。表情の表出が演技的に大げさな人もある。これらはいわゆる「過剰適応」タイプで、どこか「学習」して身に着けた風があるから、それに気づけば容易にそれと知れる。つねに言われることだが(例、土居健郎)、患者に接して感じた「かすかな違和感」を打消さず、大切にすることだ。そこには必ず「なにか」ある。世間になじむ安易なモラルに靡いた医者の自己欺瞞。これがすべてをだめにする。

診察室への入室に際して、戸を閉めない人がある。わが診察室は引戸であるが、これを閉めずにスッとそのまま患者ソファに着席する人があれば、それだけで「アウト」と小医は見なしている。「アウト」というのは「診断確定」という意味である。

DSMは要らないのである。

救急外来で腰に手を当てて痛みを訴える人があれば、それだけで尿路結石とほぼ確定診断できるように、スナップ・ダイアグノーシス(一発診断)である。

小医は「戸を閉めてないよ」と黙って目でおしえると、横着をして、席から立たず座したまま戸を閉めようとする人がある。ますます診断が確定的である。入室という目的に向かって「まっすぐ」である上に「めんどくさがり」な横着者は直ちにADHDと見なしてよい。椅子に座る前に戸を閉めるという世間普通のルールをしらず、かつ、上記のような横着が他人の目にどう映るか気にしていないところはASである。

「自動ドアかと思っていました」と言訳する人が時にあるが、小医はこれも真に受けてはいない。「なるほど、そうかも」と物わかりのよい態度をとってはならない。「良識」の堅持が精神科医の稼業において重要なことは後でも述べる。小医は、単純に待合で待っている際の患者の観察力不足と解している。「視野のせまさ」を患者が自己申告していると解釈している。

発達特性者の「視野のせまさ」は、患者がじぶんの荷物をどこに置くか、その行動からも看て取ることができる。わが診察室にはちゃんと患者の席と小医の席のあいだに荷物置きとみなしうる大きな木の切株が置いてあるのだが(患者席から左側で入口からは奥にあたる)、入室するや足元にドサッとイキナリ荷物を置いて(患者席から右側で、入口に近く、帰り道の通路を塞ぐ)平気な顔をしていれば、これも「アウト」である。社会的なふるまいにおいて粗野で優美さを欠いているからである。席次のマナーから考えても、「奥」にゲストたる「患者さま」に用意された荷物置きがあるはずと考えるのが社会常識である。それが欠如しているのはASで、どこに荷物を置こうが、用を足せればそれでよいという「まっすぐさ」はADHDで、そういう態度、判断が社会的にどう評価されるか無頓着なところはASとみる。

判断を慎重にする人があって、「ここ(切株)の上に荷物を置いてもよろしいでしょうか?」と少時迷って小医に声をかける人がある。これはASを疑う。ASには「すべきかどうか」逡巡して長考する優柔不断の悩みをもつ人が多いからである。

手にした自分のスマホやお薬手帳、飲料のペットボトルを小医の机の上にイキナリ置く人がある。この対人距離の近さ(目的に向かってまっすぐ)はADHDと解している。自他の別がない。対人距離が適切でないことに無頓着なのはASとみる。

診察がはじまる前の、ほんの短いこの一コマだけで、これだけの所見がとれる。診察前の所見につけくわえたいものは他にもある。わかりやすい例は、患者の遅刻である。午前受診の患者に多い。たいていADHDだろうと知れる。Student Apathyを起こしている連中は朝寝坊の常習犯である。抗ADHD薬を内服させると効く人があるから試す価値がある。躊躇はむしろ患者のためには有害であろう。

「精神科医療は薬漬け」とかいう間違った世の風潮に、精神科医は断じて抗しなければならない。薬漬けというなら内科医療も全く同じではないか! クロルプロマジンがなかった時代、医者と患者との間に「疎通」というものが全く取れなかった入院統合失調症患者の悲惨と医者の苦悩を決してわすれてはならない。臺弘、笠原嘉先生の時代の苦労を知らずして、ばかな大衆が何をほざくかと私はつねに怒っている。

朝寝坊による遅刻のほかに、クリニックにたどり着けない「方向音痴」によるものもある。これもADHDを疑う。頭のなかに効果的な「地図」を描けない。左右や東西南北、道順、タイムスケジュールなどを頭の中の「黒板」に書きこもうとしても、書きこむ端から消えていくもののようである。

もうひとつ、重要な診察前の所見について触れる。それは「いつまで待たせるのか?」という受付へのクレームである。即座にADHDとみてよい。早く診てほしいという自分の感情にまっすぐであるのはよいが、待合にはじぶんの他にも待っている人があろうのに、その姿が目に入らない。社会性を著しく欠いている。この点ASでもある。「権利」を自己中心的にふりまわす連中は、まづこの種のADHD/ASだろうと強く疑ってよい。

さて、ようやく診察である。あいさつ一つ、会釈ひとつしない人がある。イキナリ本題に入る。小医には与り知らぬじぶんの問題を一方的に話し出す。話し出してとまらない。会話ではない。演説である。じぶんのしたい様に話して(ADHD)、会話は本来双方向的でなければならないことを忘れている。じぶんが一方的に話す話しぶりが相手にどういう印象を与えるか想像できない(AS)。統合失調症や不安神経症患者などでも見ることが多いものであるが、こうした「一方的な話しぶり」は、発達特性に由来する「精神症状」のひとつと同定してよいのではないかと最近小医は考える様になっている。精神医学の教科書に、上記のような患者の「はなしかた」につき、医学的分析をいれた文章を、小医が不勉強なためなのか、いままで見たことがないのは、学問として、いかがなものであろうか?

話しぶりで気になるのは、「要点」をかいつまんで話すことができない点である。精神科医となって1年目に経験した例であるが、時系列に沿ってくだくだしく全部話そうとするので、あまりの冗長さに音を上げた小医が、何を言いたいのでしょうか、要点を話してくださいと一旦話を打切ったら、「もう一度最初からお話させていただいてよろしいでしょうか?」と忠実に「再生(リプレイ)」をまた始めた患者があった。古いカルテの病名欄に「自閉症」と書かれてあったので、年配の指導医に「あれのどこが自閉症なのですか?」とたずねたら「まさにそれが(自閉症)!」と逃げられてしまった。

余談だが、「教えない」教育には妙味があって、これが教育のなかの教育と思うこと、再三である。忘れないからである。「じぶんで考えつづけてみなさい」という促し。人から教えてもらったことはすべて忘れてしまう。ということは、しょせん、大した内容ではなかったのだな。同じことを確かショーペンハウエルも昔言っていたっけ。とすると、教科書の記載は不十分であればあるほど、いいことになる。前言は撤回しておこう。

脱線した。「全部言う」ということは「こだわり」なのかも知れない(AS)し、AS者は印象を人に伝えるoutputよりは受け止めることinputが優位の人なので、じぶんが体験したこと全部をとりあえず医者に逐一律儀に報告しようとするのかも知れないし(あとの判断は人任せ)、「じぶん」というものが弱いので、話の「要点」をそもそも絞れないのかも知れない。或はADHD者にあっては部屋をちらかしやすい以上頭の中も散らかっているので、要領よく情報を取り出せないのかも知れない。小医が気になっているのは「なんだろう」という間投詞や「結構」といった意味のない話のはさみ言葉である。発達特性者はこうした言葉を会話の中で使う頻度が高い印象がある。話の「要点」をしぼろうと努力して果たせないことの表明かと解釈している。或はじぶんの言いたいことをうまく言えないことの。

ここでフトおもいだしたが、「~についてはご存知でしょうか?」という枕詞で小医と話を始める患者も印象深い。或は「コレコレのことをまづは先生の頭の片隅に置いておいてほしいのです」とか前置きしたりする。うざいこと、この上ない。これもこれだけでASと診断確定してよいフレーズである。会話をかわす相手とは、話題を共有して話さないといけないと「学習」をしたとおぼしき人である。しかし、そういう言い方が相手によってはたいそう失礼で不快を与えることまでは学習できない点、正にASである。表情のみえない顔が平坦なトーンで(もしくは奇妙なイントネーションで)これをやれば、ますます診断は確定される。

やはりDSMは要らないのである。

診察の開始を泣く準備ではじめる患者も特に女性で多い。「昨年一年間の診療で男は600人、女は1000人来た。診察室で泣いた男の数はたったの3人だったが、女は900人もあって、女は男の300倍泣く生き物だ」という話を患者にするのが小医の持ちネタの一つである。女が男よりも泣く生き物とはさもあらん。しかし、ADHDの特性があるから、より泣虫になるということは、ADHD者は自分の感情にまっすぐなので(或は甘えん坊なので)、いかにもありそうなことに思える。わが診察室にはあえてティッシュボックスを置いていない。置かないことで患者の社会的成熟度を観察できるからである。ハンケチなりポケットティッシュを持参していないこと自体、社会的に幼いと見うるし、最も甚だしき例をあげれば、例外的にお渡しして使い終わったティッシュをソファにそのまま平気で(不注意ではなく明らかに故意で)置いていった患者の母(看護婦)があった。診察の中でASと判明していたが、その行動でますます診断は確定される。

ともかくも診察が開始されて、小医が目をむける先の重要なポイントは、患者の目である。たしかに「目は口程に物を言う」。目がまるく、黒目が大きくて、めぢからがあれば、それだけで疑うべきだ。もちろん細目も存在するが、おおきな瞳は、それだけで発達特性をうたがって問診を進めてみてよい、大きなサインである。

次にその瞳の動きが重要な観察ポイントである。左に寄ったり右に寄ったり上に上がったり(いわゆる三白眼)下に下がったり(逆三白眼)、甚だしきはぐるっと回旋させたりする。目を大きく見開いて黒目の四方に白眼をつくる「四白眼」(これは小医の造語)をつくったりする人もある。気が散じやすく、小医との会話に集中力を高める必要があってそうしている(ADHD)場合もあろうし、人とそもそも目を合わせるのに困難を感じているのかも知れない(AS)。

気の散りやすさでいえば、診察中、小医は意図的に空いた手指を動かしてみることがあるのであるが、患者によっては、サッとその動きに反応して眼球をせわしく動かし注視する人がある。けだしADHDなのだろう。これも面白い所見である。

短い応答であれば、小医と目を合わせながら話せるが、じぶんのする話が長文になると(意識を集中させるために)どうしても視線が寄り目になったり上がり目になったりしてしまう。そのことを自覚できている患者もあれば、小医に指摘されて初めてそれと気づく人もある。

小医をじっと凝視する人もある。人によってはまるで「猫の目」のような人もあって、ギョッとさせられることがある。視線を小医に固定する人が、小医にひとめぼれや盲目的な崇敬の念を起こしているわけではないことは、その瞳に輝きが少ないことでそうと知れる。「ベタッとした瞳」になっているのである。社交上の義務感からいやいや合わせているからであろう。人と目線を逸らしていると、世間からはいい印象をもたれないよと言われて「学習」をした目線なのである。姿勢をとるに上手な角度をつくって、小医と目を合わせているような、いないような絶妙の向き合い方をする人もある。これは「学習」を一層発展させて「研究」をした視線といえる。小医が見破ったら、動揺を隠せない様子を示した人がある。ASの人は無表情であっても、こころの動揺は患者の体幹を中心にそこからなぜか小医にも波動的に伝わってくるのが不思議である。

容貌で美男美女をみたら、これも発達特性を疑うべきである。陶然と見惚れていてはいけない。目がまるくパッチリで感情の表出がとぼしければ、おのづとフォトジェニックな美男美女になる道理である。これほど爽やかな印象を人にあたえる男はそうはいないだろうと思わせるようなハンサムや、こんな佳人がこの世に存在するのかとためいきをつかせるような絶世の美女も少なくない。しかし、そうした場合、何か世間を「超越」したところがあって、マネキンやモデル、はなはだしきは「メカ」(ロボット)、お人形さん(アンドロイド)のごとき「微妙な不自然さ」を否めない場合が多い。人にあたえる印象を「学習」或は「研究」をしたためである。インド人、エジプト人のような彫りの深い、少しダークないわゆる「濃い」顔もまれではない。しかしこれはけだし例の「めぢから」によるところが大きいのだろう。テレビタレントかアニメマンガのように表情のおおげさなタイプもある。これは「過剰適応」によろう。なかなかの佳人、美男が、ふいに険しい眉根寄せをして、それまで小医に与えていたすばらしい印象を帳消しにすることがある。静と動の大きな落差。これも気にしてよいサインである。

小医が表情の話をすると、「何を考えているのかよくわからない顔だと言われてきました」と自分からそう申告してくれる人も少なくない。頭のなかがちらかっていて考えをまとめきれない(ADHD)からそうなのか、受け止めるばかりで表出していくべき自分というものをもたないために(AS)そうなのか、どちらかはわからない。しかし、容貌から考えが窺えないからといって本人が何も考えていないわけではなく、きもちは千々に乱れていることが少なくないことは医者のほうで心得ていなければならない。発達特性者は、本人に特性があると医者が指摘すると、ADHD者、特に未熟性を多く残すタイプで傷つきやすい。Googleのレヴューに弊院の悪口を書きこんでいる人たちがそうである。真実に立ち向かえないのである。しかし、事実を事実とうけとめて客観性を重視するASの人は、指摘を受けてむしろ納得できたと診察に大満足する人も多いから、複雑である。

年配者になると、社会的地位も高く、社会適応も一見はわるくない人が多いので、外面は愛想のよい表情をうかべることができる人が多い。しかし、素の貌を晒しているときは、表情がきわめて乏しいか、怒っているような険悪な表情がみえていることが少なくない。待合で待っているときの顔と診察室で医者と対面しているときの顔に「落差」がないか、注意深い観察を要する。年配者で「隠れ(masked)AS」は存外多い印象が小医にはある。単純に不安神経症とか心気神経症とかで片づけていてはいけない。これまでそういう「ナントカ神経症」で済まされてきた人には、おそらく発達特性があるという目で厳しく査定しなおすと新たな発見があるものと考える。臨床が楽しくなる。

容貌で次に注意すべきは、「女の男顔」「男の女顔(優男、或はナヨナヨ男子)」である。特に前者がそうである。発達特性は男に多いというデータがあるように従来耳にしているが、実際は男女差はないのではないかと臨床上は思わされる。しかし男顔をした女性例は、小医には、印象に残りやすく、従来のデータはやはり信憑するに足るのかも知れないと感じさせられるときがある。顔のみならず、体格や挙措を見ても少しマニッシュである。きれいな女の子顔をしていても、挙措動作に男性を感じさせるタイプもある。京都観光に来ている手足の長い西洋人のような感じで、華奢でかれんなやまとなでしこを連想するのは難しい感じが小医にはする。

性的に異性がすきかどうか、立ち入って訊くことは意外と発見がある。男で性格が女性的(男の男ぎらい)、女で性格が男性的(女の女ぎらい)という場合がほとんどであるが、同性愛者、或はバイセクシャルということを知る機会もけっして稀ではない。ここでも医者がどういう印象を患者から受けるかということが重要である。くりかえしになるが、医者が職業的に感じるかすかな違和感はたいていの場合、重要な何かを告げていて、DSMが決して告げようとはしない「微妙なことがら」である。

なおここで注記をひとつ。これまでに示した点、以後にこれから示す点は、それらを蒐めた全体の中で、発達特性の有無を検討し、診断を下すべきもので、たとえるに「星座」のごとき診断である。一つひとつは「絶対」とまで言えるポイントではない。例外もありうる。うまく「星座」を形づくることができれば、特性はあるだろうし、「星座」のカタチがうまくできなければ、特性の有無については判断を保留しなければならない。小医は、開業の当初、患者を極力「ふつうの人」とみて、特性の有無の判断は消極留保に傾くことを原則としてきたが、いまはそうした控えめな態度は、かえって診断の邪魔をしていると気づくようになっている。「何かある」と感じたものは、患者の通院継続やひょんな再来があったときなど、観察の機会が増えれば増えるほど「やはりあったか」と、あとから「結果」の裏打ちが与えられることが少なくなかったからである。「勘」は裏切らないのである。

受診者の耳にピアスなどがあれば、小医は、目を留めずにはいられない。女性が耳たぶに一つだけ開けているピアスはノーマルと見なすが、通常は開けない部位に開けてあれば(例えば、耳介の上部)、それが一つであっても、小医は「自傷行為」と見なす。耳全体にじゃらじゃらピアスが開いていればそれは勿論である。日本人の男はピアスを開けないのが普通だと思うので、男のピアスはたとえそれが一つでも、小医は「自傷行為」とみる。すくなくとも患者の人となりを知るには見逃しにできない重要所見である。自傷行為には、ほかに刺青(タトゥー)、カッターナイフなどによる手首、四肢、体幹などへのカッティング(いわゆるリストカット)、過食嘔吐、下剤を使った腹下し、過量服薬(OD)、抜毛、爪噛み、手指の皮膚めくり、頭の壁への打ち付け、夜間の歯ぎしりなどがあるが、これらの行為の意味するところは、なんだろうか? 小医は単純に「こころの整理(ストレスの消化)ができにくい」ことから派生する代償行為とみている。

人は思い余る感情があるときに泣く。その感情に言葉をつけることができるようになると泣かなくなっていく。小医がこども時分に経験した成長過程の実感である。そこから推して、自傷行為は「言語化による心の整理(ストレスの消化)」がうまくいかないことを補完する行為とみる。「こころの便秘」解消行為といってもいいし、内向化したゆがんだ形の「かんしゃく」ともいえる。

発達特性のある人は、ときに「自我」が十全に発達していない。ASやADHDについて書かれてある書物や論文などを読んで小医がいつも不満な点は、この単純で誰にもわかりやすい基本中の基本たる事実がどこにもバシッと書かれていないことである。もともと「発達障害」とは「脳神経の発達」の遅れという意味である。「脳神経」とは臓器のことでその機能が「精神」ということである。精神機能が十分に発達して「(成熟した)自我」がかたち作られる。そして「精神」とは「知・情・意」の働きのことで、上記自傷行為は、主として、感情の働きが十全ではないことに由来している。意志のはたらきや自己分析力が十全ではないという特性については、あとで触れよう。DSMが決定的にだめな点はこの肝心なポイントに触れていないことである。すなわち「自立性の欠如」である。

小医は精神科医となったはじめから「未熟神経症」の診断名を、不用意に「病人」の数を増やすまいと、外来臨床の実用性の上から、ひとりじぶんのために考案してきたが、どうやらこの「未熟性」、「自立性の欠如」「人格の芯がない」という点が、ASやADHDを考えるさいの「重大な核心」だろうと想うに到っている。

発達特性者は、未熟で混乱しやすい(ADHD)か、不安強く思いつめやすい(AS)かで、パニック発作も起こしやすい。だから患者の話を聴くなかで「自傷行為」や「パニック発作」の既往歴があることを耳に留めた時も(患者家族にそういう歴がある場合も等しく注意する)、発達特性があるのではないかと積極的に疑う姿勢に転ずるべきである。その目で見ると、「所見」は思いの外、出てくるはずである。

なお、容易に傷つく者は、人を遠ざける工夫をするものである。カラーコンタクト、奇抜な色をつかっての髪のカラーリングやメイク、髑髏や蛇などおぞましい絵柄の黒Tシャツやメタル指輪など、いわゆるヘヴィーロック系ファッションをしているわかものは、めだちたいと考えているのでは決してなく、むしろ「容易におれ(あたし)にちかづくな」という警告を他者に発している、せんさいで脆弱なこころの持主なのだと小医は解している。或はこれらの「標識」から「おれ(あたし)の本性を見抜けるなかまだけ、おれ(あたし)に近付いてくれ」というSOS信号に似たものか。往々、この手のわかものは、感情のコントロール不良から、自傷行為や自殺企図をおこなっている。

話のついでに服装の話をすると、発達特性者は服装にこることが少なくない。小医は20代の若き日よりずっとダンディズムに深い関心をはらってきているが、歴史上のダンディのひとりに、オスカー・ワイルド(一級の劇作家だが男色の罪で投獄されている)があって、彼の「唯美主義的衣装」もかくやとばかりのセンスを発揮している人が女性に散見される。小医はそんな娘たちに称賛の評を惜しまない。男性で印象ぶかい例としては「アシンメトリー・ルック」(きものでいえば片身替り)を披露して下さった方があった。髭も左右で片方だけ落としたりするのだと言う。「ぼく、シンメトリー(左右対称)だと落ち着かないんですよ」と、左右対称こそ調和の源と考える凡庸な社会の常識に真っ向から反旗を翻されていた。

ふつうの良識の範囲内においても、服装や靴、かばん、持物、色づかいなどに大変上質のセンスを発揮している男女が多い。アート、ファッション、デザイン、インテリアに興味があるか、絵を描いたり見たりするのが好きか、楽器の演奏や音楽はすきか、医者のほうでそれとなく察したり、直接患者に尋ねたりすることは有益である。開業をして、どうしてこんなにも、わが診療所には発達特性を有するとおぼしき人の受診が多いのか、ひとりあやしんだことがあったが、弊院内装のきわだった「美」が受診の誘因となっているのではないかとこれはまじめに疑っている。

サテ、ときどき、小医は目のやり場に困ることがある。それは女性受診者のミニスカートである。ホットパンツ姿である。上衣の胸元の不用意なひらき具合である。こんな服装はいまどき「ふつう」ですよと言われても、小医はけっして与しない。中安信夫氏は、精神科医は「インテリやくざたれ」と言っている。世の中を広く知るということは、良識を捨てろという意味ではない。良識を押えた上で、(ヤバイ世界も)広く知れというのが中安氏の言葉の意味だと小医は理解している。だから精神科医は「良識」について寧ろガンコでなければならないと思う。俗世間の声に安易に靡いてはいけないのである。上記のようななりをした女性は、往々、みょうに小医と対人距離がちかい。けっして性的に誘惑しているわけではない。単純に他人(男性)の目を気にしていないのである(AS)。無邪気にフレンドリーなのである(ADHD)。じぶんのふるまいから惹起されるかも知れない将来結果の予測が困難なのである(AS)。この特性のために、レイプ事件まがいの被害を自ら招いていたりもしているし、この特性のために、水商売の世界で人気ナンバーワン・ホステスになっているということもある。しかし、医学的に解釈すると「イマジネーションの欠如」というほかはない。もちろん、これは小医が今まで述べ来った、或はこれからまだまだ述べる観察ポイントと合わさったうえでの総合的解釈である。

上にのべた「良識の堅持」という点で、面白い診断法が、ひとつある。スナップ・ダイアグノーシス(一発診断)といってよいほど、貴重な所見の一つと小医は考えている。それは、…

(つづく)

 

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