美輪明宏が亡くなつた。享年91歳。
6月30日朝刊、日経1面下にある「春秋」は、案の定「ヨイトマケの唄」を取上げて、お涙頂戴の提灯追悼記事。耻なくしては書けない文章の見本である。貧困。被爆。反戦。この安つぽい道徳論には反吐へどが出る。美輪明宏といへば、『紫の履歴書』。これを、紹介しなくて、美輪明宏の何がわかるのか。
美輪明宏は、オカマやからと、きらひな人が多い。しかし、わたくしは、ときどき、「さうか知ら」とか、しらふでも昔からお姐ねえ言葉がすなほに出てくる一見gayなのに、実は亭主関白気質、愛人多数のマッチョ男なので、美輪明宏には興味があつた。
さうなんですよ。ふだんから美しい物、上質な物に囲まれてゐませんとね。正直、美的な感性が磨かれないでせう? 普段の生活が大事なんです。ふだんキタナイものに囲まれて、偶に上等の席に招かれた時だけ、趣味人と気取つてゐるなんて、滑稽ざんしよ?
こんな当然のことを、美輪明宏は、堂堂と言ひ放つた。美輪明宏は貧乏だけの人ではない。とびきりの贅沢も知つてゐる人である。同じことは、かの向田邦子も妹に教へたことである。この世の事は「最上のものと最下等にあるものを同時に知らないと、なんにも知つたことにはならないの」。正直である。「春秋」のごときに代表されるちんけな「モラル」が云ふことは貧乏ばかりである。これが読者への媚こびでなくて何であらう。しかし、なんの遠慮もなく云ふ。これがなにより善良な人間には大事なことである。正直者のかしらに神宿る。ふだんからマイセン、クリストフル、ロブマイヤー、ベルナルドオ、バカラ、ロイヤル・コペンハーゲンなどのカトラリに囲まれた食事をしてゐなくて、偶々西洋料理屋に行つた時には、必ず大衆は怖気づいてしまふ。もつたワイングラスが上等か下等かもわからない。軽いのが上等である。重たいのは定めて下等である。店に出るRiedelごときはたいてい安物である。日本の木村硝子などは安価なのにロブマイヤー並に上等である。ステムの太いグラスは終り。細いほど官能的である。それくらゐは知つておけ。日本料理屋においても同じである。ふだんから織部、唐津、荻、染付、赤絵、乾山・魯山人の写、塗のお箸、お椀を使ふ食生活をしてゐないと、詰まらぬ料理屋ごときにも舐なめられる。逆に知つてゐると、料理人の程度もかんたんに手に取るやうにわかるから、「ふうん」と余裕を保てるといふものである。
戦後、日本人は、それまで神国バンザイと唱へてゐたのが、手の裏かへして、マッカーサー元帥バンザイ、民主主義が正義、天皇は死ねといひだしたから、美輪少年は、この日本といふ国にすむ国民に、根本的な疑念を抱いた。手の裏かへして昨日の態度を知らぬふりした先頭は何よりも、学校の教師どもである。わかるか? 似非インテリほど、信ぜられぬものはない。この歴史を忘れるな。文部省、学校教師、大学教授、インテリ文化人。こいつらほど、信を措く能はざる連中はないのである。この非国民どもめが。それで美輪少年は思つたといふ。
じぶんは北斗七星のごとく、どんな世の中にあつても、変らぬ真実をたよりに生きていかうと、こゝろに決めた。
これがわたくしにとっても、自分の信条となつた。一生わすれぬフレーズである。
政治(モラル、法律)は見下すべきもの。最下等なものには関はるな、とも、わたくしはこゝろに誓つた。
話のついでに、さいきん本を読まないわかものが増えてゐるといふ。ウソか誠かそれは知らぬ。昔から言はれ続けてゐることだから。しかし、本を読むといゝことがある。本に書いてあることがそのまゝ世の中でも發見できるからである。私はラ・ロシュフコーとパスカル、ニーチェを愛した。世間に出たら、かれらの教へ通りの人間がゐて吃驚した。上司に胡麻する下等な人間のなんと多いことだらう。受けて世辞を愛する莫迦ばかのなんと多いことだらう。この世は簡単な原理で出来てゐる。本は役に立つのである。社会で生きて行くのはなんと易しいことだらう。わたくしはアハハハと堪へ切れず嗤わらつた。
医学の現場でもさうであつた。医療の基本は救急外来。怖い場所である。だから研修医の時分、わたくしは一年間ちか寄らなかつた。気がちいさいのである。しかし二年目になり、さうも言つてゐられなくなつた。私は最大の集中力で救急外来症例の本を幾冊も読破した。するとふしぎである。本に書いてあるどほり、「症例」が来たのである。わたくしは驚くと共に、たちまちにして名医になつた。本のつぎは、次の症例事実が、いはゞ書物になるのである。患者が「書物」。わたくしは、デカルトが昔『方法叙説』で云つたやうに、「世界」といふ書物を読むやうになつたのである。どの医師も同じであらう。医師は、これほど強いものはない、「事実」といふものに実地で学んで、日日事に臨む。本に書いてあることにはウソがある。しかしじぶんの経験した事実に嘘がまじらふ筈がない。だから、しぜん態度は自信に満ちてえらさうになるのである。たんに本を読んでゐるだけの口舌の徒、根本的の自信を欠いた、ふぬけの文系人間どもに対しては腹の底から軽蔑の念を感ずるに至つたゆゑんである。こいつらこそオカマに似た者である。おなじことは、かのエロ小説家、渡辺淳一先生も言つてゐる。わたくしは同旨を読んで、わが意を強くしたことを覚えてゐる。
註。『失楽園』などを書いた、渡辺淳一はもと整形外科医。たゞのエロ小説家とは、わけが違ふこと、むろんである。わたくしは心底尊敬してゐる。





