ブラック・ジャックの法哲学

むかし書いたエッセイの再掲。お暇つぶしにご覧くださると有難いと云爾。

ブラック・ジャックの法哲学 閑居小人

昔パスカルはいった。国境線ひとつまたぎ越せば異なる正義とは何だろうと。

同じ国の中でさえ立場が違えば、違うことをいうのが人間である。そうして各々じぶんが正しいと言い張っている。これを傍から冷やかに観察する学問を「法哲学」と呼んでいる。

ブラック・ジャックとは、手塚治虫が描いた同名漫画の主人公である。本名は間黒男(はざま・くろお)。天才外科医ということになっている。年齢は不詳だが、四十歳には満たないであろう。白髪まじりの長髪で、背丈高く、隆(りゅう)としている。

幼時に負った火傷から顔面に、小学校時代の同級生だった黒人混血児「タカシ」の皮膚が一部ツギハギされた異形の人でもある。

今回は「法哲学」の角度からこの主人公の性格と拠って立つ正義について考察してみたい。

「三千万円いただこう」

貧富の差なく患者に巨額の報酬を要求する。百五十億円請求したことさえある。よくある相場が一千万円から五千万円。

手塚治虫が漫画の連載をしていた頃から既に四十年近く経つが、これは現在でも変らず法外な額である。誰もが一瞬ひるんで無理はない。手塚は彼を「海賊」に見立てたと言う。

ブラック・ジャックの本質はここに尽くされている。彼は「法外」の存在である。実際、彼は無免許医である(なぜか車の免許はもっている)。ために警察や「日本医師連盟」から度々お咎めを喰らっている。しかしそのつど爆発事故など平時の秩序を破る緊急事態が起り、牢屋入りから免れている。

無免許の医療行為は違法だが、背に腹は代えられぬ、今回だけは特別に見逃すから、負傷者を助けてやってくれと主客逆転、頼まれて、毎度みごとに救命、ぶじ無罪放免となっている。

ここには一つの法原則が働いている。《必要は法を破る》、《緊急は法を破る》という例外的原則である。ここにいう「法」とは平時の法秩序をいう。それを破る高次の法が「必要」であり「緊急」というものである。

たとえば咄嗟に命を狙われて相手を殺しても罪にはならない。国の法律秩序は極力そうした事態がおこらないよう監視の目を見張らせているが、無政府状態(アナーキー)が時に生ずるのは原理的に避けられない。みぎの正当防衛が成立するのもそのためである。殺人罪は否定される。同様の理で「超法規的措置」によりブラック・ジャックの行う手術に傷害罪は成立しない。

ブラック・ジャックの場合、ここにもう一つの法原則が加味されている。それは《天才は法を破る》というものである。必ず救命する天才ゆえにこの無免許医には誰も手を出せないのである。

法は多数の「平均人」を想定している。法は人の才能に関心をもたない。ために世の規格から外れた少数の人間にとって、法は桎梏(しっこく)となりうる。ブラック・ジャックは「平時」「平均」「平等」に苦しめられる人である。

人里離れた岬の突端に立つ、昭和七年築の古ぼけた一軒家に、これまた異形の娘(幼妻?)、ピノコと住むいっぽう、国境にしばられることなく世界を股にかけ、数々の危険をかいくぐって活躍している姿は、その証左となろう。

ブラック・ジャックは表向きクールな言動とは裏腹に、好んで自ら危難に巻き込まれている節さえある。

《我等ハ平和ニ窘(くる)シム》

才能にかんしてひとこと言うと、資格は才能を必ずしも保証しない。教師の免状があるからといって、教師の才能があるとは限らぬ。医者も同じである。ライセンスというものは国家があるからできるので、なければハナから生じない。

ブラック・ジャックの存在は、国家というものへの懐疑と、医者という存在の本来のありどころを指し示している。

《醫ハ職業ト云フ可カラズ。天職ナレバ也》

ブラック・ジャックのプライドは甚だ高い。常に向上心に燃えている。ほんとうに偉い人には尊敬の念を惜しまない。しかし、これは裏を返せば、そうでない大多数の人には少なからず軽蔑心をもっているということである。世間の常識によりかかるだけで努力を惜しみ、安易でラクな道を生きている人にたいする彼の態度は殆ど冷酷といっても過言ではない。

多く彼の対人関係は対等でない。態度も傲岸不遜である。「人の弱みにつけこんで」としょっちゅう病人やその家族から批難を浴びている。彼がその尊大な態度をゆるめるのは唯一相手がまごころ、ないし必死の努力の姿を示した時のみである。

ブラック・ジャックは法外な金額を手術の報酬に要求するが、じつはお金への執着は甚だ薄い。むしろ恬淡(てんたん)としている。

相手が虚栄心をすてて人間として裸の心を示せば、たいていの場合、その要求をひっこめている。彼の鋭い眼光は、お金ではなく、依頼人の「まごころ」の有無、真剣さの有無に向けられている。それを探り当てるために必ず一度はふっかけて容赦しない。

ブラック・ジャックは実は獣医でもあって、人と区別せず、イルカ、シャチ、小鳥、クマ、サル、イリオモテヤマネコなど、数多くの動物を治療している。子どもと豊かな心の交流をもつことも多い。これはそこに嘘の入り込む余地が少ないということと関係しているであろう。

そう、ブラック・ジャックは、法外のたちばに立って、この世の嘘と不正を明るみに出す存在なのだ。

本来同じいきものであるのに、万物の霊長などとおごっている人間。

懸命に生きる野の動物にくらべて、のうのうと生きながら不平ばかりいう人間。

ほんらい区切りなどないはずなのに国境あるがために生ずる戦争。

みんな裸でうまれてきたはずが生じている貧富の差とおおらかどころではない金への執着。

ほんらい人は平等であるはずなのに生れている上下の力関係。人の上下が人品に適っているならまだしも、往々は正反対である醜い現実。

人はそれぞれ独自の「顔」をもっているはずなのに、それを消し去ろうとする「組織」というもの。

ほんらい率直にうまれついているはずの心を虚栄とごまかしで飾る人間の弱さ。

ほんらい睦(むつ)み合って生きるべき親子きょうだい夫婦であるはずなのに、他人以上に冷え切った人間関係。

そして、本来お金に代えられるはずのない命につけられる値段の「相場」。

ブラック・ジャックはしばしば裁判の席に立たされている。これはなぜか。

理由はこの虚飾にみちた人の世を彼一人で敵に回しているためである。かれは普段この世の不義に対しては傍観者としてクールに接しており、それがこの漫画のえもいわれぬ魅力になっているのだが、内心は怒りの念を燃やしているため、時に隠しきれず、法で守られた世間の人びととの争いに巻き込まれている。しかし、けっして徒党は組まず、政治活動をしたりはしない。彼は徹底して個人の人である。

「団体とか運動とかにはカカワリを持たないタチでしてね」

小学校と医大を中心に、彼の母校同窓会への出席率は高率である。いかに厭なやつがいようとも、個人の縁でつながった人びとに彼はふしぎと義理固い。親子きょうだい夫婦ともだちのあいだに求める愛情も、殆ど「一心同体化」願望といえる程に、はなはだ濃厚であって、古風ですらある。

《父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信シ》

ブラック・ジャックの医療行為は科学的見地から様々の批判がなされている。彼は好んで他人からの皮膚移植を患者に施したが、実際には拒絶反応から定着しない。

しかし、もしそれが叶うことならば、皮膚を通した人間どおしの善意のつながりが、人びとにも強く実感されたことだろう。ブラック・ジャックはお金にならぬ研究をきらったが、彼に医者として固有の研究テーマがあるとすれば、移植の免疫学を措いて外にない。

ブラック・ジャックの一連の態度や行動の背後には、幼時のじぶんに瀕死の重傷を負わせ、母をも殺した人びとへの復讐心が隠されていることになっている。が、断片的に語られるにとどまり、全容が明らかになることは遂にない。

昭和48(1973)年に連載を開始した本作がなければ、手塚治虫の名前が真に偉大となることはなかったであろうとさえいわれる。この作品がそれほどまでに成功した理由の一つはその形式に求められよう。

一話完結式の短編なので、一話一話に金言の如き「教え」がある。少年漫画とはいいながら、主人公は読者層より一回りもふたまわりも成熟したオトナの男であるため、少年読者は一段上の「教えを受けて」成長させられた気分を味わうことができる。一話一話は断片であるため、知りきることのできない秘密の余韻もつねに残されている。

読者の仰ぐべき「師」はひとりブラック・ジャックのみならず、敵対者のドクター・キリコや、恩師の本間丈太郎など複数あって、単純にどれが正しいと割り切ることもできない。

この独特の箴言的リアリティこそ、時代を超えて読者を獲得するふしぎな吸引力になっているものと思われる。

(平成23年4月・5月記)

 

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